福島県出身。会津藩士・警察官の畑能賢の長男として生まれる。弟は陸軍元帥の畑俊六。妹のタネは牛島実常陸軍中将に嫁いだため義弟。
東洋英和学校卒業後に三井銀行に入行し、その後に陸軍士官学校に入り直して、1896.5.27(M29)首席で卒業(7期)。同期に緒方勝一(後の大将:4-1-31)、河西惟一(後の中将:16-1-17-55)、川瀬亨(後の陸軍中将:8-1-7-9)、二子石官太郎(後の中将:17-1-10)、大竹澤治(後の少将:2-1-4-14)、中村安喜(後の少将:7-1-2-14)、羽入三郎(後の少将:3-1-3)、壬生基義(後の少将、伯爵:21-1-12-10)らがいる。
1897.1.25歩兵少尉任官。1903.11.28陸軍大学校を優等(恩賜)で卒業(17期)。同期には首席で卒業した渡辺錠太郎(後の大将:12-1-10-15)、林銑十郎(後の大将、首相:16-1-3-5)らがいる。
近衛歩兵第2連隊中隊長を経て、日露戦争では第1軍兵站副官として出征、同兵站参謀、鴨緑江軍兵站参謀、大本営参謀を務める。
戦後は、参謀本部員、参謀本部附(イギリス差遣)、イギリス大使館付武官補佐官、'10.11.5インド駐剳武官、'12.6.1参謀本武附(欧州出張)と海外に視野を広め、同.12.10(T1)帰朝し、陸軍省軍務局軍事課員となる。
'16.4.1大佐に昇進し、歩兵第56連隊長に就任。'18.7.24軍務局軍事課長を歴任し、'20.8.10少将に進級して、航空局次長となり、'22.8.10軍務局長に補された。'24.12.20陸軍中将に累進。'26宇垣一成(6-1-12-1)陸相のもとで陸軍次官に抜擢され、同.10.1軍事調査委員長を兼ねる。'28.3.22(S3)免兼。同.8.10第1師団長。
'29.7.1関東軍司令官となり、張作霖爆殺事件後において手腕が期待され、'30.5.1大将に進級したが、同.5.31現役のまま旅順にて急逝。急性腎臓炎である病死であると公式では発表されたが、毒殺説など諸説あり死因は不明。享年57歳。功4級。