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はやし せんじゅうろう

林 銑十郎

はやし せんじゅうろう

1876.2.23(明治9)〜 1943.2.4(昭和18)

大正・昭和期の陸軍軍人(大将)、首相

埋葬場所: 16区 1種 3側 5番

 石川県金沢出身。加賀藩士の林孜々郎の長男として生まれる。日清戦争が勃発し、四高補充科を中退して士官候補生を経て入学し、1896.11.26(M29)陸軍士官学校卒業(8期)。 同期に渡邉錠太郎(大将:12-1-10-15)、新井亀太郎(中将:13-1-4)、汾陽光二(中将:16-1-19-11)、佐藤鋼次郎(中将:2-1-4-13)、神尾直次(少将:22-1-30)、齋藤徳匡(少将:24-1-34)、中島銑之助(少将:14-1-24-7)らがいた。 1897.6.28歩兵少尉任官、歩兵第7連隊附となった。1903陸軍大学校卒業(17期)。同期では、首席で卒業した渡邉錠太郎、優等の畑英太郎(大将:6-1-16-3)らがいた。
 '05日露戦争に大尉で従軍し、歩兵第6旅団の副官として旅順攻撃に参加、活躍した。戦後に乃木希典 第3軍司令官から感状をもらった。'06参謀本部員となり、中佐で朝鮮中箚軍司令部附を経て、'13(T2)ドイツ留学。 第一次世界大戦後のイギリスに駐在し、帰国後、'16.11.15久留米俘虜収容所長に就任。'17.8.6大佐となり、'18.7.24歩兵第57連隊長、'20.1.30抜本附(臨時軍事調査委員)、'21.7.20少将に進級し陸軍士官学校予科長を務めた。 '23.3.17教総府(仏国出張)、同.6.30国連陸軍代表を務め、同.9.11命帰朝。'24.5.1歩兵第2旅団長、'25.3.2中将に累進し、東京湾要塞司令官となる。
 '27.3.5(S2)真崎甚三郎の推薦により陸軍大学校長の栄職に迎えられ、'28.8.10教総本部長、'29.8.1近衛師団長を歴任し、'30.12.22朝鮮軍司令官に就任した。満州事変勃発に際しては独断で派遣し、越境問題をおこした。
 '32.4.11大将に昇進し、同.5.26教育総監 兼 軍事参議官となる。また、同年勲一等瑞宝章。'34には勲一等旭日大綬章を受章。'34.1.23齋藤實(7-1-2-16)内閣の陸軍大臣、次いで岡田啓介(9-1-9-3)内閣でも引き続き陸軍大臣を務めた。 '35.9.5軍事参議官。皇道派を削り統制派に切り替えることで、相沢事件や2・26事件の因をつくることになった。これにより、'36.3.6待命、、同.3.10予備となる。
 しかし、石原莞爾の働きかけもあり、'37.2.2第33代 内閣総理大臣に就任。「祭政一致」という古代的なスローガンを掲げた。昭和12年度予算を成立させ突如解散(食い逃げ解散)するも、総選挙で惨敗。 身内の陸軍からも見放され、同.6.4に総辞職。123日(4ヶ月)という短命内閣であった。その後、'40.10.3内閣参議、大日本興亜同盟総裁をつとめた。'41.10.22辞した。正2位 功4級金鵄勲章。享年66歳。没後に勲1等旭日桐花大綬章追贈。

<コンサイス日本人名事典>
<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧>


【大権千犯:越境将軍】
 満州事変は、関東軍や軍閥が政府の不拡大方針を無視して行った謀略であったが、関東軍は朝鮮軍司令官の林銑十郎に応援を求めた。朝鮮軍の満州への出動は国外出兵であり、「奉勅」という手順を踏まなければならず、参謀本部はこれを禁じていた。
 しかし、林は石原莞爾ら関東軍の要請により、歩兵第39旅団を越境させた。つまり、独断で鴨緑江を渡って満州に入らせるということを行ったのである。これは国際的にも重大問題であるが、政府や参謀本部の方針を無視して行ったことで、「大権千犯」である。陸軍刑法第三十七条に該当する犯罪で、死刑または無期にあたる。
 これは関東軍の高級参謀の板垣征四郎と通じていた、朝鮮軍の神田正種参謀が扇動したので、林もこれに乗せられてしまったのだとされる。実際は関東軍から越境出兵の依頼をうけたとき、林は大いに躊躇し、決心がなかなかつかなかったらしい。この時に神田が突き上げを行ったので、林はびくつきながら同意したのだった。
 林は本来なら死刑に価する大罪を犯したのであるから、その責任を負わされるべきであったが、逆に功績とされて勲章を貰ったのである。以後、「越境将軍」というあだ名をつけられ、より陸軍の中枢部へと歩を進める。


【陸軍大臣】
 1932.5(S7)齋藤實が組閣し、陸軍大臣に荒木貞夫(8-1-17)が留任し、海軍大臣は岡田啓介となった。しかし、荒木は朝鮮軍司令官の林を陸相にして、自分は退こうと考え、林を呼び寄せた。 林は政治家向きの能力に乏しかったが、権勢欲だけは相当にあり、陸相の座に就くことに大いに乗り気であった。だが、参謀次長の真崎甚三郎が林の陸相の構想に反対した。 以前、陸軍大学校校長の職を勧めたりもし決して嫌悪があったわけではなく、この時期に荒木が陸相の座を去ると、皇道派の勢力が弱まることになる懸念からであった。これにより、一端は林に譲る予定であった荒木も具合が悪くなり、林の陸相就任は流れる。
 '34(S9)1月、荒木が病気を理由に陸相を辞任した。皇道派の若い将校たちから人気があった真崎が陸相の後任という期待もあったが、参謀総長の閑院宮が真崎に反対し、林を推薦したため、林の陸軍大臣就任が決定した。 林が陸相になったことで、統制派の永田鉄山を軍務局長に起用し、東条英機や武藤章ら統制派が勢力をのばし軍部を牛耳るようになり、強い力を持っていた皇道派の没落が始まった。 真崎は永田を軍務局長にすることに反対したが、林はそれを認めず、その変わりに他の人事で真崎の意見を大幅に入れることで妥協点を見出そうとした。しかしこの林の動きにより二人は対立を深めていくことになった。
 7月、齋藤内閣が倒れ、岡田啓介の内閣が組閣。林は陸軍大臣を留任した。この年の9月、陸軍の定例異動において、林は既に荒木や真崎、陸軍次官の柳川平助ら皇道派の勢力を削ぐ意志を固め、永田らを相談相手として原案をつくったが、真崎の意見に屈せざるを得ない面もあったという。 この頃より、林のやることの裏には全て永田の主張があるといわれた。'35(S10)9月の異動において、林は教育総監の真崎の更迭を行った。これが青年将校たちの憤激を買い、永田が相沢中佐によって斬殺される「相沢事件」が起こり、翌年に起こる「2・26事件」の因をつくることになった。


【内閣総理大臣:食い逃げ解散】
 '37(S12)1月、浜田国松代議士と寺内寿一陸相の間で交わされた「割腹問答」で、陸軍と政党の対立が激化し、弘田弘毅内閣は総辞職した。既に陸軍内部では前年あたりから広田内閣を倒して、林を首相にし、陸軍の政策を強力に押し進めようとする動きがあった。 その中心は石原莞爾(当時は大佐で参謀本部第2課長)らであった。当時の林は、2・26事件後に予備役となっていたが、石原は「林大将なら猫にも虎にもなる。自由自在にすることができる」と考えていた。
 広田内閣総辞職後の後任首相選別に元老の西園寺公望(8-1-1-16)は、陸軍を抑えられる者は宇垣一成(6-1-12-1)しかいないと見て、宇垣を指名した。 宇垣は組閣の大命を受けて、杉山元(15-1-3-11)や小磯国昭らに陸相就任を頼んだが、陸軍の協力を得られず組閣工作は失敗、宇垣内閣は幻となり流れた(流産内閣)。次の候補の平沼騏一郎(10-1-1-15)も辞退した。 この結果に西園寺は、やむなく陸軍の石原らの推す林を挙げた。林は石原を参謀として組閣をすすめ、2月2日に第33代内閣総理大臣として林内閣を成立させ、「祭政一致」という古代的なスローガンを掲げた。
〔林内閣 閣僚〕総理:林銑十郎、外務大臣と文部大臣を兼務。外務大臣は後に佐藤尚武。内務大臣:河原田稼吉。大蔵大臣と拓務大臣:結城豊太郎。司法大臣:塩野李彦。 農林大臣と逓信大臣:山崎達之輔、後に逓信大臣は児玉秀雄(8-1-17-1)。商工大臣と鉄道大臣:伍堂卓雄(7-1-13)。陸軍大臣:中村孝太郎、後に杉山元。海軍大臣:米内光政。政党からは一人の閣僚もとらなかった。
 内閣の組閣段階から軍の傀儡(けらい)政権と見られ、評判は良くなかった。第70議会を再開し、予算などの重要法案を通過させ、会期末日の3月31日に「食い逃げ解散」と呼ばれる抜き打ち解散を断行した。 政党は林内閣に反発していたので、政党に打撃を与えようと考え、前日の3月30日になって、急に解散を口にした。閣僚たちは寝耳に水であり解散に反対した。林は一人ずつ別室に呼び解散を承知させ、意志を通した。
 林は政党に痛打を加え、議員の質を上げるために解散をやり、何度でも解散をやるのだと主張したが、理由もなく解散しているとしか思えないこの解散は国民的な合意が得られず、4月30日の総選挙では、民政党が179、政友会が175、社会大衆党が37で既成政党の勢力は減らず、与党はわずかに40名前後の大敗に終わった(総選挙で親軍政党をつくろうとしたが、露骨なファッショ化により国民の不満が高まり、政府支持派の昭和会などが惨敗)。
 林は再解散することによって勢力を盛り返そうとの意志を示したが、陸軍は林内閣に見切りをつけ、杉山陸相は総辞職を勧告した。5月31日、林内閣は「無能」「無為」「無策」「ロボット首相」「優柔不断内閣」「浮き草内閣」「何もせんじゅうろう内閣」などの悪評・揶揄を浴びて総辞職し、4ヶ月(123日)の短命内閣で終わった。 この政局の混乱に国民は新世代の出現を願い、後継の近衛文麿内閣に過剰な期待がされた原因ともなった。


【後日談とその他】
 宰相在任中に唯一特筆すべき出来事がある。'37(S12)4月に奇跡の人と呼ばれたヘレン・ケラーの初来日である。林は徳川家達ら名士500人を集めて歓迎晩餐会開いた。
 イスラーム問題の第一人者という顔も持っていた。林自身はムスリムではなかったが、大日本回教会会長を務め、ムスリムたちのモスクや神学校などの設立を目指し活動、サポートをした。戦前の日本でのイスラム教に関しては、サーディク今泉(外-1-別中)のページに詳しい。
 首相退任後の9月、真崎甚三郎邸宅に林は訪れ、「何もかも、君の言う通りになってしまった。何とも申し訳がない」と深く頭を下げて詫びたという。

<帝国陸軍のリーダー総覧「林銑十郎」:祖田浩一>
<内閣総理大臣ファイル>
<日本史小辞典>


墓所 御沙汰

*墓所には二基建つ。入口正面に和型「陸軍大将 正二位 勲一等 功四級 林銑十郎 墓」が建つ。左隣りに並んで和型「林家之墓」。左側手前に「御沙汰」の墓誌碑が建つ。林銑十郎の墓石裏面には「昭和十九年二月四日 林錬策建之」と刻む。

*長男は林錬策(S62.7.20歿 82歳)。陸軍少将の林錬策とは別人。長女の純子は、十二銀行頭取で薬種商の中田清兵衛の長男の中田勇吉に嫁いだ。四女 ●(ネ+茲)子は、警視総監、台湾総督府総務長官等を歴任した斎藤樹の長男の斎藤吉彦に嫁いだ。

*「御沙汰」の墓誌碑には下記が刻む。「格勵職ヲ奉シテ 力ヲ軍事ニ效シテ 心ヲ世務ニ勞ス 閣臣ノ班輔弼 是レ慎ミ家宰ノ位燮理 是レ勤ム遽ニ溘亡ヲ聞ク 曷ウ軫悼ニ勝ヘム泥轡使ヲ 遺ハシ賻ヲ賜ヒ以テ弔慰スヘシ」

*多磨霊園に眠る御沙汰を賜った人物は、田中義一(6-1-16-14)、岡田啓介(9-1-9-3)がいる。

*「御沙汰」(ごさた)とは、御沙汰を国語辞典で調べると「天皇・将軍などの最高権力者の指示・命令」と書かれている。時代的に鑑み、生前の功績を讃えるため、昭和天皇が林銑十郎の葬儀に御沙汰書(弔辞)と御下賜金を賜ったことが伺える。 なお、昨今でも久しぶりに会った知人に使用する「ご無沙汰(ごぶさた)」は、相手を敬って、長らく訪ねていなかったり、便りをしないままでいたりしていたことを、詫びる挨拶が語源。


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