陸奥国胆沢郡水沢吉小路出身(岩手県水沢市)。水沢藩士・留守家臣の斎藤耕平の長男として生まれる。幼名は富五郎。斎藤家は留守家譜代の家臣で、第9代の勘左衛門が家老、父は目付、小姓頭を務めた。
【最後の留守家臣】
1869(M2)胆沢県地元雇員となった旧留守家臣の吉田種雄や澤邊綾之丞などの推薦で、留守家臣の子弟が県庁諸官の書生となった。
権知事の武田亀五郎についた竹下権三郎、大参事の安場保和についた後藤新平、権少属の祖父江についた餘目新次郎などで、斎藤は小参事の野田豁道の書生となった。
翌年、胆沢県庁の給仕に採用されたが、1872水沢県の誕生でお役御免となり、嘉悦大参事などに従い上京した。内田春吉、福島常定と東京出張所で暮らす。
【海軍軍人時代】
1873陸軍幼年学校の入学試験を受けるが官費生から外れたため辞退し、海軍兵学寮に入学した。1875練習艦に同姓同名の水夫がいたため、幼名の富五郎から實に名前を改名。
1879海軍兵学校卒業(6期)。当時の兵学校長が、後に岳父となる仁禮景範であった。1884.4(M17)4年間の米国派遣を命じられ留学。
同.9 初代アメリカ公使館付武官に任命され、訪米する政官財界要人の案内や通訳や用務援助などにあたった。
海軍大臣の西郷従道(10-1-1-1)のヨーロッパ視察では通訳に抜擢され、7ヶ月間イギリス、フランスなどを巡り国際感覚を磨いた。
1892(M25)35歳の時に海軍の重鎮である仁禮景範の娘の春子(15歳年下)と結婚。
日清戦争では侍従武官として広島大本営に赴任。その後は巡洋艦「和泉」の副長、常備艦隊参謀を歴任した。
1897日本初の鋼鉄戦艦「富士」(英国建造・日露戦争では主力戦艦)の副長として、横須賀軍港に回航。同.12.27大佐となり秋津州艦長。
1898.10.1厳島艦長。同.11.10海軍大臣の山本権兵衛の下、海軍次官に抜擢就任した。日露戦争終戦までの7年間にわたり山本権兵衛海相を補佐する。
本来、海軍次官は少将か中将が就任する慣例の中、大佐になったばかりの異例な抜擢は、山本権兵衛と仁禮景範の斎藤實びいきと噂されたが、就任後の活躍により周囲を認めさせた。
1900.5.19海軍省総務長官兼軍務局長となり、翌日、少将に累進。同.10.25免兼、兼臨時建築部長。'03.10.27兼艦政本部長、同.12.5海軍次官。'04.2.3兼軍務局長('05.12.19免)、同.6.6中将に進級した。'05.2.7兼教育本部長、同.11.7免兼。軍政畑を歩いた。
'06.1.7第1次西園寺内閣の海軍大臣として入閣。以降、第2次桂内閣、第2次西園寺内閣、第3次桂内閣、第1次山本権兵衛内閣でも後を継ぎ、5代内閣に留任して在任8年3か月。この間、'07.9.21(M40)男爵を襲爵。'12.10.16(T1)海軍大将に昇進した。
【シーメンス事件】
'14.1.23(T3)国会の予算総会の席で島田三郎議員によりシーメンス事件(海軍の汚職事件)が明るみとなった。
海軍は明治の初め以来、主としてイギリスやドイツから艦船を購入していた。斎藤實が少佐時代にイギリスへ行き、戦艦「富士」を日本へ回航したのも、この一環だった。
事件発覚の発端は外国人同士の脅迫事件からで、そのトラブルから、発注した側の日本海軍将官にドイツのシーメンス社がリベートを送ったことが露見した。
その後、衆議院予算委員会で立憲同志会の議員が厳しく追及、結果、高級将校が検挙され、矛先が内閣へと波及。
野党が内閣弾刻決議書を提出したが否決されたため、国民が騒ぎだし、ついには第2次桂内閣で斎藤實が海相だった頃の巡洋艦「金剛」の発注をめぐる収賄までが暴露された。これにより、当時の艦政本部長の汚職事実が判明。
同.3.9貴族院予算総会での斎藤實の提案は退けられ、同3.24(T3)山本内閣は総辞職。シーメンス事件に関わる一連の問題の責任をとらされ、同.4.16待命、同.5.11予備役編入で第一線から退けられた。55歳の時であった。
【朝鮮総督】
一線を退き5年の歳月が経ち、北海道十勝で農業をやりながら残りの余生を送る準備を始めようとしていた矢先、原敬内閣の陸相と海相が相次いで朝鮮総督就任を勧めに訪れた。
ブランクもあることから、その任を非ずと断ったが、原総理自身が説得に訪れたことで、再び政治の舞台に戻ることになった。60歳の時であった。
'19.8.12朝鮮総督に就任。朝鮮総督府は、'10日韓併合による朝鮮統治のために設置され、伊藤博文が初代総督(韓国統監)を務めた。斎藤實は第3代目(T8〜S2)、第6代目(S4〜S6)総督を務めた。
朝鮮総督に赴任した時は三・一独立運動勃発直後であり、武断統治を表面に打ち出した日本政府のやり方に朝鮮の民衆が抵抗を示していた。
朝鮮入りをした斎藤夫妻に対して京城南大門駅にて朝鮮の独立運動家が爆弾事件を起こしたが、かすり傷一つ負わなかっただけでなく、全く落ち着いて何事もなかったような態度であったという。
着任早々、弾圧と軍政による〈武断政治〉から、いわゆる融和的な〈文化政治〉への転換をはかり、治安体制の整備拡充に務めた。
憲兵警察が普通警察となり、官吏や教員の制服帯剣を辞めさせた。キリスト教学校への待遇改善や朝鮮語での教育、京城帝国大学設立、朝鮮日報、東亜日報の創刊など、特に文化、教育に力を入れ「文化政治」を推し進めていった。
キリスト教宣教師とも積極的な交流を図り、'22ローマ法王からグラン・クロア・サン・シルベストル勲章が贈られている。
また、'20.4から始めた十三道巡視で、斎藤實の好々爺的風貌が今までの偉そうな総督と異なりイメージを和らげることとなった。'25.4.9(T14)男爵から陞爵し子爵となった。
'27.4.19(S2)朝鮮総督在任中、首席全権委員としてジュネーブ海軍軍縮会議に参加。日英米の補助軍艦の数をどうするかについての会議である。
会議はアメリカとイギリスの対立で決裂したが、調整案を示し調停の立場をとった斎藤實に対する評価は高く、「国際人斎藤」を内外に知らしめる場となった。
帰朝後、同.12.17枢密顧問官を経て、'29.8.17再び乞われて朝鮮総督を歴任したが、体調がかんばしくなく、'31.6.17辞した。
【内閣総理大臣】
当時の日本は世界恐慌の余波を受け株式や生糸、鉄鋼、農産物などの商品市場が暴落し企業倒産や失業者の急増。
東北・北海道では冷害で凶作となり、借金による「女子の身売り」「欠食児童」が社会問題となっていた。
また、関東軍の暴走による満州事変が勃発し、軍事費の増大に伴う膨大な赤字公債発行などの財政問題、国際的な非難と孤立化の外交問題へと発展した。
軍部や右翼が政党内閣打倒(政党内閣=議会で多数を占めた政党または諸政党を基礎に成立した内閣)、親英米派の元老西園寺公望(8-1-1-16)など天皇側近を排除し軍中心の内閣樹立と政策転換を目指すファシズムが台頭するさ中のことであった。
犬養毅首相が海軍急進派の青年将校たちに暗殺された5・15事件で混迷するなか、昭和天皇は、侍従長鈴木貫太郎をして元老西園寺に自らの希望を次のように伝えた。
『首相は人格の立派なるもの。現在の政治の弊を改善し、陸海軍の軍紀を振粛するのは、一に首相の人格如何による。協力内閣、単独内閣等は敢へて問ふところにあらず。ファッショに近きものは絶対に不可なり。憲法は擁護せざるべからず。しかざれば明治天皇に相済まず。外交は国際平和を基礎とし、国際関係の円滑に務むること』。
これに合致する人物であり、事態収拾の便法として、西園寺公望により後継首相に白羽の矢が立ったのが、73歳の斎藤實であった。
'32.5.26(S7)第30代内閣総理大臣に就任、外務大臣も兼任した。斎藤内閣は非政党内閣だったが、政友会から高橋是清(8-1-2-16)を蔵相、鳩山一郎を文相に起用し、民政党からも閣僚を入れる「挙国一致内閣」を組織した。
他に斎藤内閣で閣僚となった多磨霊園に眠る人物として、海軍大臣に岡田啓介(9-1-9-3)、陸軍大臣に荒木貞夫(8-1-17)、林銑十郎(16-1-3-5)、外務大臣に内田康哉(11-1-1-6)、商工大臣に松本烝治(3-1-17-4)らがいる。
斎藤實が総理大臣としての心構えを書にしたためた言葉:『忍耐は人の宝なり 人に接するには 調和を旨とし 謙譲なる態度を忘るべからず 優越観念は 深く自己の胸底に収め 他に対しては平凡中庸を以てし 自然に他をして敬服せしむるを要す』
外交面では満州事変の処理が問題となっていたが、国内政治の安定を第一の目標とし、軍部の対立はなるべく避けようとした。
そのため斎藤内閣は満州国をすんなり承認し、これが原因で日本は国際連盟を脱退する。内政面では恐慌以来疲弊の一途をたどる農村の復興に力を入れ、農業土木事業を主に「時局匡救事業」を推進し、雇用を拡大、多額の借金に苦しむ農家に現金収入の道をもたらした。
自助努力を促す精神運動として「自立更生」を掲げ、自らラジオ放送をし国民に訴えた。これにより農村救済事業は一定の成果をみた。
「故郷忘難」の言葉を残し、こどもたちの教育のために吉小路斎藤邸にレンガ造りの書庫を建設する一方、旧主留守家への爵位授与をはたらきかけるなど「故郷」に対する強い想いをもっていた。
更に高橋蔵相の財政政策で輸出量が回復し、国力回復につながり、景気回復の軌道に乗せることができた。
「スローモー」や「べご」と揶揄されたが、「忍耐は人の宝」のごとく、粘り強さを流儀に、混迷する時代に立ち向かい長期政権に期待がもたれた。
しかし、内閣に不満を抱く政友会右派や次期首相の座を狙う平沼騏一郎(10-1-1-15)らが内閣打倒に動き、'34.7.3(S9)帝人事件で総辞職に追い込まれた。
5日後に辞す。75歳の時であった。総理大臣の在任期間は774日。
【帝人事件】
1934.4発覚した帝人株取得をめぐる大疑獄事件。この汚職事件疑惑で大臣を含む16名が起訴され、大臣の辞職も重なり、斎藤内閣総辞職の原因となった。
しかし、3年後、100人以上が収監されながら、裁判では全員が無罪となり、事件そのものも否定され、単なる商取引と商習慣の謝礼と認定された。
このことより、倒閣を目的にしたでっち上げと言われた。倒閣のために検察に圧力をかけた人物は、検察官僚であり当時枢密院副議長の平沼騏一郎の陰謀とされる。
なお、この事件に関わった多磨霊園に眠る人物は、陰謀を働いた平沼騏一郎とその犠牲となった斎藤實以外に、当時の警視総監であった藤沼庄平(20-1-13)や、帝人事件担当の検事長だった宮城長五郎(22-1-68-1)、東京検事正だった岩村通世(9-1-19)、弁護人として関わった今村力三郎(10-1-1-14)らがいる。
【後継首相:岡田内閣】
大正末期以来、日本の総理大臣の推薦は、唯一の元老の西園寺が取り仕切ってきた。しかし、80代も半ばを過ぎた西園寺は高齢を理由に、西園寺だけではなく、首相経験者・枢密院議長・内大臣を交えて後継首班を選ぶ合議制のシステムに切り替えられることになった。
これで初めて選ばれたのが岡田啓介(9-1-9-3)である。斎藤實と同じ海軍の穏健派。斎藤内閣の政策を引き継げ、軍部の暴走の歯止めをかけられる切り札として、斎藤實が会議出席者に強く推薦したとされる。
【ボーイスカウト総長からの内大臣】
1909(M41)日本にボーイスカウト運動が伝えられた。その13年後、1922.4.13-14第1回全国少年団大会が静岡で開かれた。
この大会で、ボーイスカウト、各地の子供会、宗教少年部、日曜学校少年団などを総合した「少年団日本連盟」が、後藤新平を初代総長に発足した。
'29(S4)後藤新平が亡くなってから総長不在となり、'32より後藤と竹馬の友であった斎藤實が相談役に推挙され、首相就任後も少年団の祝賀会に出席するなど交流を行っていた。
「大日本少年団連盟」と改称した連盟は、'35.6.2(S10)斎藤實を第2代総長に迎えられた。腰を据えて活動を行おうとしていたが、同.12.26 岡田内閣の内大臣に任命された。
内大臣は、天皇の行為や決定に関する進言(輔弼)、御璽(天皇印)・国璽(国印)の保管、詔書・勅書などの事務を扱うことを主とし、天皇の厚い信用が不可欠である役である。
【2・26事件】
1936.2.26(S11)青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げてクーデター事件を起こした。
この事件で、内閣総理大臣岡田啓介、大蔵大臣高橋是清、内大臣斎藤實、侍従長鈴木貫太郎、陸軍教育総監渡辺錠太郎(12-1-10-15)、元内大臣牧野伸顕、内務大臣後藤文夫が襲撃され、斎藤實、高橋是清、渡辺錠太郎のほか警備の警察官などが殺害された。
斎藤邸襲撃部隊のリーダー坂井直中尉は、歩兵第三連隊第一中隊210名を率いて、警視庁占拠の野中隊より一足早い午前四時十分に営門を出た。
この坂井隊は小銃八分隊、軽機関銃八分隊、機関銃四分隊の編成で、これを第一突撃隊(坂井、麦屋清済少尉)、第二突撃隊(高橋太郎少尉、安田優少尉)、警戒隊とに分けた。
この警戒隊の指揮は末吉常次曹長が執る予定であったが、出発直前で兵器係の中島正二軍曹と共に逃げ出し、第一中隊長矢野正俊大尉宅に駆け付け、坂井中尉が部隊を連れだすことを知らせてしまった。後に引けない坂井は、警戒隊は各分隊長責任として決行に臨んだ。
斎藤私邸は四谷見附に近い四谷仲町三丁目(現在の新宿区若葉一丁目)。正面は簡単に開いたため、急きょ全部隊が正面から入った。
邸内には三十名近い警官が詰所にいたが、突撃隊の殺到に仰天し、たちまち武装を解除された。突撃隊は軽機関銃などで雨戸を壊し乱入し、斎藤夫妻がいる二階の寝室に向かった。
春子夫人が物音に驚き戸を閉めるが、安田少尉が戸を開け一同中へ這入るや、春子夫人が一同の前に両手を挙げて立ち塞がり、「待ってください」と制止した。
部屋の奥の方に寝巻姿の斎藤實が起きてきた様子が見え、春子夫人を押しのけ、安田少尉が先づ拳銃を一発放った。続いて坂井中尉と高橋少尉が加わり乱射した。
斎藤實は二、三歩後ろへ退き、倒れた。この時、春子夫人は身を以て斎藤實の身体をかばい、機関銃の筒先をもち、「斎藤の命は国家に捧げた者です。
時期が来ればさしあげます。まだその時ではありません。斎藤を撃つなら私を殺してください」と叫び続けたという。しかし、青年将校たちは春子夫人を押しのけて射撃を続けた。
坂井はトドメを刺そうとしたが、春子夫人が離れないため、目的は充分に果たしたものと思い、トドメを刺さずに寝室より引き下がり、正門前に集結し、一同と共に天皇陛下万歳を三唱した。
時に午前五時十五分。襲撃はわずか十五分で終わった。この青年将校たちはその後すぐに、杉並区上荻窪に移動し渡辺錠太郎を襲撃した。
結果、斎藤實は41発もの弾丸を撃ち込まれ絶命。享年77歳。
青年将校たちの間で斎藤實以外の人には決して負傷させまいとあらかじめ申し合わせしていたが、夫をかばい身を投げ出してきた春子夫人も、流れ弾で両手と背中を撃たれて負傷した。
同.3.2荼毘にふされ、同.3.22築地本願寺での本葬、同.3.26水沢でも葬儀が営まれた。遺骨は多磨霊園と水沢大林寺・小山崎墓地に分骨され、朝鮮に遺髪が眠っている。従一位大勲位。
<帝国海軍提督総覧> <内閣総理大臣ファイル> <図説2・26事件> <日本の名門1000家> <日本史小辞典など>
第107回 2・26事件 41発の弾丸を撃ち込まれ絶命 齋藤實 お墓ツアー 齋藤實内大臣襲撃事件
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