栃木県出身。旧姓若田部。若田部友造の二男として生まれ、後に藤沼友次郎の養子、1913(T3)分家した。
1909(M42)東京帝国大学法科大学政治科卒業後、翌年内務省入省、北海道庁属。
'11岡山県都窪郡長、'14(T4)奈良・'16鹿児島・'18京都・'21大阪各府県警察部長を経て、'23.10茨城県知事に就任したが、同年12月27日に起きた虎ノ門事件の煽りを受け辞職。
'24内務省警保局長。'27.2(S2)新潟県知事となるが、翌年、栃木県から第16回衆議院議員総選挙に出馬し初当選、立憲政友会に属した。
'32.1東京府知事、同年5月に警視総監となる。警視総監時に帝人事件が起こった。'33.12〜'46.7勅選貴族院議員。この間、'36広田弘毅内閣の内閣書記官長。武徳会理事長。
敗戦後の混乱期の幣原内閣発足に伴い、第4代東京都長官(S21.1.15〜21.6.8)となり、兼任して警視総監を再任した。
再任した警視総監は第56代目であり、原爆時の広島県知事を歴任した高野源進(15-1-9)の後任として就任した。
「東京府知事も勤め、警視総監や内閣翰長の経験をもっているため、都と警視庁との無益な摩擦を避け、首都の復興と治安維持とを急ぐ一適任者たるを失わないであろう」ということが理由とされている。
'46.7〜'47.3枢密顧問官に任じられるも公職追放。'51.8解除後はニッポン放送顧問を務めた。'57回想録『私の一生』を刊行。享年78歳。従4位 勲2等。
<近現代日本人物史料情報辞典> <森光俊様より情報提供>
*墓所内には5基の墓石が建つ。正面に「藤沼庄平 / 静子 墓」。左面に没年月日と戒名が刻む。戒名は慈温晃院殿道日庄善大居士。
藤沼庄平の墓石の右隣りに「念其祖省其身展其志」と刻む碑塔が建つ。左隣りに「藤沼荘一郎家墓」。この三基が正面に並ぶ。
墓所左側には「藤沼静二家墓」、「藤沼友輔家墓」が並んで建つ。
【虎ノ門事件】
1923.12.27皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が帝国議会の開院式に臨む際、虎ノ門付近で一無政府主義者の難波大助という青年に狙撃された事件。
この事件は第二の大逆事件として一世を震撼させ、山本権兵衛内閣は即日引責辞職した。当日の警護責任を取り警視総監の湯浅倉平と警視庁警務部長の正力松太郎が懲戒免官。
犯人の難波の郷里である山口県知事は2ヶ月間の2割減俸、各県知事も煽りを受け、また難波が卒業した小学校校長と担任は教育責任を取り辞職した。
更に難波の父親である難波作之進は衆議院議員を辞職し餓死自殺、兄も会社を退職した。なお、狙撃をされた皇太子には命中せず、同乗していた侍従長の入江為守が軽傷を負った。犯人の難波は絞首刑。
【帝人事件】
1934年4月に発覚した帝人株取得をめぐる大疑獄事件。この汚職事件疑惑で大臣を含む16名が起訴され、大臣の辞職も重なり、7月3日斎藤実(7-1-2-16)内閣総辞職の原因となった。
しかし、3年後、起訴された全員が無罪となり、事件そのものも否定され、単なる商取引と商習慣の謝礼と認定された。
このことより、倒閣を目的にしたでっち上げと言われた。倒閣のために検察に圧力をかけた人物は、検察官僚であり当時枢密院副議長の平沼騏一郎(10-1-1-15)の陰謀とされる。
平沼の枢密院議長就任を阻んだ斎藤を恨んでの報復ではないかと言われている。
1934年1月時事新報に「番町会を暴く」という告発記事が掲載され、帝国人絹の持株売買をめぐる疑惑が取りざたされた。
帝国人絹は鈴木商店系の人絹会社で金融恐慌の際、その22万株が担保として台湾銀行に入っていた。
おりからの人絹ブームで、帝人株の値上がりが見込まれ、鈴木商店の番頭格の金子直吉らが財界グループ「番町会」の河合良成、永野譲らに買い戻しのあっせんを依頼。
そこで河合、永野らは鳩山一郎文相と黒田英雄大蔵次官に働きかけて島田茂台銀頭取を動かし1株125円で10万株の払い下げに成功。
これと同時に帝人が増資を決めたため株価は150円にはね上がり、河合らは大儲けした。この際、関与した中島久萬吉商相、黒田次官に帝人株や現金が渡ったという疑惑の事件。
事件当時警視総監だった藤沼庄平は、検察が警視庁刑事部に何の相談もなく動き出したことへの不快感を示しながら、事件の背後には塩野季彦(司法官僚出身の政治家)がいたと回想している。
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