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ひらぬま きいちろう

平沼騏一郎

ひらぬま きいちろう

1867.10.25(慶応3.9.28)〜 1952.8.22(昭和27)

明治・大正・昭和期の司法官僚、首相、男爵

埋葬場所: 10区 1種 1側 15番

 美作国津山城下南新座(岡山県津山市)出身。代々津山藩士として藩主松平家に仕えた武士の家系。平沼晋の二男として生まれる。号は機外。
 1872 上京して同郷の箕作秋坪の三叉学舎にて英語、漢文、算術を学ぶ。1878 東京大学予備門入学し在学中に学校に対して不満をもった生徒らによって賄征伐や暴動事件が起こり(明治十六年事件)関与した。大学側は在舎生全員の146人に対して退学処分並びに他校への入学禁止を命じたが、諸官署に登る人材の減少を危惧した文部省や一部の教授たちの嘆願により、退学者全員に対して形式上の再入学を許可し、約60名が復学した。平沼は復学し、1888年(M21)東京帝国大学法科大学卒業。
 大学卒業後、司法省に入る。1905 大審院検事、'06民刑局長を兼任。この間、第1次桂内閣で社債信託法を立案し成立させることに尽力。'07 欧米各国を視察し、'08 刑法改正に伴い設置された犯罪人異同識別法取調会のメンバーとして指紋による前科登録が導入されることになる。'10 大逆事件で主任検事を務め社会主義抑圧のため暗黒裁判を指揮し、幸徳秋水らに死刑を求刑した。
 西園寺公望(8-1-1-16)内閣で司法次官。'12,12,21から'21.10.5 約10年間、検事総長をつとめた。'21 大審院長に就任。'23 法曹界会長。同.9.1 関東大震災で大審院長を辞し、同.9.6 第2次山本内閣で司法大臣に抜擢され入閣。'24.1.7 司法大臣を辞したタイミングで、同.1.9 司法省を退官し、約一か月間、貴族院貴議員を務めた後、枢密顧問官を務める。
 '26.4.12 枢密院副議長となり、約10年間務めた。この時期、社会運動や西洋物質文明を害毒とし、神道イズムの鼓吹を目標とした復古的日本主義による国民教化を目指す国家主義的思想団体の「国本社」を創始し社長となる。日本大学の総長も兼務した。同.10.28(T15)男爵を授爵して華族に列せられる。
 昭和初期は、政治姿勢はきわめて保守的かつ国粋主義的であり、民主主義や社会主義、またナチズムやファシズム、共産主義といった外来思想が入り込んで力を持つことを危険視した。平沼は自身の経歴を生かして大きな影響力を与えることができる司法界と枢密院で、右翼的な活動の警戒、齋藤内閣を潰すために帝人事件を指揮して倒閣も行った黒幕ともされている。そんな中でも、五一五事件や二二六事件などが起きた。二二六事件後、'36.3.13 首相になった広田弘毅の推薦で枢密院議長に就任。広田は右翼団体との関係を一切絶つことを約束させての推薦であった。約束を守り国本社を解散。そして就任二か月後に思想犯保護観察法成立に尽力した。
 '39.1.5 第35代内閣総理大臣に就任。長らく司法界で活躍し、政官界に隠然たる力を持ち、国粋主義の思想の持ち主で、天皇中心主義はもちろん、世界を有色人種と白色人種の対立ととらえ、共産主義に強い反発心を抱いていたため、右翼陣営は平沼内閣組閣を歓迎した。一方でリベラルな思想の元老の西園寺公望(8-1-1-16)とは馬が合わず、嫌われていたため宰相の座はなかなか巡ってこなかった。そこで「英米との協調外交を継続する」という、自分の信条に反していた西園寺からの条件を呑み、首相の就任することになった。よって、第1次近衛内閣の後継内閣として政策や人事の大部分を引き継いだ。なお多磨霊園に眠る平沼内閣の閣僚は、外務大臣の有田八郎(9-1-1-2)、内務大臣の木戸幸一(18-1-3)、大蔵大臣の石渡荘太郎(11-1-10-2)、文部大臣の荒木貞夫(8-1-17)がいる。
 在任中、国内に対しては、総親和を掛声に国民精神総動員を強化。一方で国外問題の課題はドイツのヒトラーから提案された日独伊三国同盟の締結であったが、米内光政、山本五十六(7-1-特-2)、井上成美(21-1-3-18)の海軍実力者の反対派も多く数十回も五相会議が開いたが結論が出ない中、同.8.23 突然、独ソ不可侵条約が締結された。日本がドイツとイタリアと手を組むのはソ連と戦うためであり、ドイツとソ連が手を組んでしまうことは、日本がソ連と戦う意味もなくなる。これにより日独伊三国同盟は頓挫。外交は今までの親独路線から米英協調路線に転換せざるを得なくなった。
 日本政府を無視したドイツのやり方に驚き呆れ、5日後の8月28日「欧洲の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」との声明を発表。同.8.30 やる気で期待を背負いスタートした内閣は就任わずか約8ヶ月で政権を投げ出し総辞職した(在籍日数は238日)。
 辞職後は、'40.12.6 第2次近衛内閣の国務大臣となり、すぐに同.12.21 内務大臣にスライドした。'41 第3次近衛内閣においては平沼は内閣参議・無任所国務大臣となり、自分の代わりとして田辺治通を内務大臣に据えた。平沼は対米関係修復を目指す第3次近衛内閣での実力者と目され、右翼団体から狙撃され、弾丸6発を被弾する重傷を負うが一命をとりとめた。開戦の賛否を討議する開戦直前の重臣会議では、開戦に消極的な見解を表明。戦時下では岡田啓介(9-1-9-3)、近衛文麿、若槻禮次郎ら重臣として東條英機内閣打倒に動いた。
 '45.4.9 首相となった鈴木貫太郎の後をついで枢密院議長に就任。同.8.9 ポツダム宣言を受諾し終戦が決定づけられた御前会議で昭和天皇による聖断に至るシナリオをつくった迫水久常(9-1-8)の提案で、平沼も構成員に加えられた。ポツダム宣言受諾派であった平沼を参加させたことで、平沼の一票により受諾者3名となり、反対派3名と拮抗し最後に昭和天皇による聖断で受諾、終戦へ向かうことになった。
 '45.12.2 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は日本政府に対し平沼を逮捕するように命令が出され、翌日、枢密院議長を辞し、巣鴨拘置所に拘置された。'46.5.3 A級戦犯として極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷し、2年半後の、'48.11.12 ウェッブ裁判長から25人の被告へ刑の宣告が行われた(起訴された28人のうち、松岡洋右と永野修身は病死、大川周明は精神異常で免訴)。平沼は既に81歳の老齢でありケンワージ大佐に支えられ入廷し、裁判長から英語で終身禁固刑の宣告を聞くと、日本語訳を待たずにヘッドホーンを外し、一礼して退廷した。東京裁判では7名に絞首刑、16名に終身禁固刑、2名に有期刑で幕を閉じた。
 拘置所内では深夜に泣き叫ぶなどの奇行が多くみられたとされる。'52 病気のため仮釈放を赦されたが、同年に逝去。享年84歳。正2位 勲1等旭日桐花大綬章。平沼の死を読売新聞と朝日新聞は「戦犯の罪は死去により消滅した」と報じた。'78 靖国神社に合祀された。

<コンサイス日本人名事典>
<『平沼騏一郎伝』岩崎栄>
<内閣総理大臣ファイル>
<東京裁判の100人>
<日本史小辞典など>


墓所

*墓石は二基建つ。正面和型「平沼騏一郎墓」、左面「鶴壽院殿法勲機外日騏大居士 昭和二十七年八月二十二日歿 行年八十七才」、裏面「昭和二十八年八月二十二日建之」と刻む。左側にやや小ぶりの和型「平沼恭四郎 節子 墓」、右面「信受院法利日恭居士 平成三年十一月二十九日歿 行年八十三才」、左面「能受院妙持日節大姉 平成元年四月二十七日歿 行年七十五才」、裏面「平成元年六月吉日建之 平沼赳夫」と刻む。

*平沼騏一郎は20代の時に陸軍省法官部長などを務めた岡本隆徳の娘と一度結婚したが短期間で離婚。その後は再婚をしていないため実の子どもがいなかった。そこで兄の平沼淑郎の孫娘の中川節子と夫の中川恭四郎が一家で養子となる話が出、'39 恭四郎と節子に長男の赳夫が誕生したのを機に、長女の宣子も含め一家で平沼姓となった。なお、平沼赳夫は衆議院議員を12期つとめ、運輸大臣や経済産業大臣を務めた政治家。赳夫の妻である真佐子の義父は徳川慶光であり、徳川幕府15代将軍徳川慶喜嫡孫にあたる。赳夫と真佐子の二男の平沼正二郎も政治家。

*平沼騏一郎の墓は郷里の岡山県津山市の安国寺にも分骨されている。



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