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ありた はちろう

有田八郎

ありた はちろう

1884.9.21(明治17)〜 1965.3.4(昭和40)

昭和期の外交官、政治家

埋葬場所: 9区 1種 1側 2番

 新潟県佐渡郡出身。旧姓は山本。号は澤農。実兄は政党政治家の山本悌二郎(10-1-3-8)。
 1909(M42)東京帝国大学法科大学独法科卒業後、外務省に入省。各地を在勤し、'19(T8)パリ平和会議随員。 '27(S2)田中義一(6-1-16-14)首相のもとで、外務省アジア局長に就任。アジア派の中心メンバーとなり欧米派に対抗した。 '30駐オーストリア公使兼ハンガリー公使、'32外務次官、'33駐ベルギー大使兼ルクセンブルグ公使、'36中華民国大使を経て、同年、広田内閣の外務大臣として入閣して、国際孤立を防ぐため、日本と同じく国際連盟を脱退したドイツと協定を結んだ「日独防共協定」を締結した。
 '38勅撰貴族院議員となり、同年10月第1次近衛改造内閣の外相。'39平沼騏一郎(10-1-1-15)内閣で外相を引き続き務めた。 '40米内内閣でも外相となり、東亜新秩序の建設に努力した。 有田の外交は軍部の圧力に押し流されるところもあったが、日独伊三国同盟を終始反対し、日米関係の悪化に懸念の立場を貫き、「有田外交」と言われた。 その後、外相が有田から松岡洋右に代わってからは日独伊枢軸外交へとなっていった。 松岡が「有田は七十数回も石橋を叩いて遂にこれを渡らなかった」と批判したのに対し、有田が「七十回叩いてみても石橋ではなかったんだ」と切り替えしたのは有名で、慎重な信念型であった。その後は、外務省の顧問に就く。
 '44.2.11前妻を亡くしていた有田が59歳の時に東京の白金台の料亭「般若苑」の女将だった37歳の畔上輝井(あぜがみ てるい 1906.11.10-1989.1.19)と再婚(正式には'53)。 敗戦後、公職追放。不遇の日々を送る有田を支えるため、妻の輝井が東京の三田に料亭「桂」を開業。多くの財界人が集う。次いで、'49白金台の「般若苑」を買い取り事業を発展させた。
 '52解除後、'53(S28)郷里の旧新潟1区から衆議院議員選挙に出馬して最高点で当選を果たす。 この時、妻の輝井が二千万円の選挙資金を用意したという。自民党からの誘いがあるもそれを断り、平和憲法擁護と福祉国家建設を政治信条にして、次第に社会党に近づく。 左右社会党統一にも動いた。'55二度目の衆院選に落選。同年、衆院選直後の東京都知事選に社会党から推され、革新候補として出馬。 保守現職の安井誠一郎(2-1-2-37)と戦って敗れた。この都知事選には有田は出馬に渋っていたが、妻の輝井が押し出すように勧めての選挙戦だった。
 4年後の'59再び東京都知事選挙に挑戦する。この選挙戦も、有田は当初出馬を固辞。しかし、妻の輝井が幹部に頼み、社会党から再出馬に踏み切らせた。 選挙資金調達のため、輝井が料亭桂を売り払い、般若苑の収益を全て選挙準備に投じた。一方、出遅れた自民党は東龍太郎(16-1-13-17)を担ぎ出して、猛烈な巻き返しに出た。 物量戦と言われ、選挙資金はいくらあっても足りない状況に、輝井は般若苑を抵当に入れ選挙運動資金をつくり、更に休業し、売却も試みるも、これは当時の首相岸の圧力で挫折。 選挙中に「元外務大臣有田八郎氏夫人―割烹料亭般若苑マダム物語」という怪文書がばらまかれ、投票日の前日には「有田八郎危篤」のビラもまかれ選挙妨害にあう。 4月24日開票。結果、東:1,821,346票、有田:1,652,189票で落選。有田夫妻に約1億円の借金が残った。 三田の有田邸を売り払い、当座の返済に充てたが間に合わず、二人の間で口論が繰り返され、溝が深まる。 般若苑の再開をめぐる意見の対立が直接のきっかけとなり、9月3日協議離婚。輝井は有田に尽くしきった半生に違いはなかったが、有田も輝井に振り回された印象が残った。 その後、輝井は般若苑の再開資金調達に走り回り、吉田茂、佐藤栄作をはじめ、作家の平林たい子やソニー社長の井深大(17-1-8-7)らも資金面で助けられ、経営を軌道に乗せた。一方、有田は'55.10〜'59.12日本社会党顧問を務めた。
 '60選挙の翌年、三島由紀夫(10-1-13-32)が、「中央公論」に、有田と輝井をモデルにした小説『宴(うたげ)のあと』を連載(1月号〜10月号)した。 作中では有田は野口雄賢、輝井は福沢かづ。三島ならではの観察力による作品であったが、作中では接吻シーン、寝室での行為、心理の葛藤、妻への暴力行為などがきわどく描写されており、有田は「事実に反すると同時にプライバシーの侵害だ」として、損害賠償を求めて民事訴訟を起こした。 これは日本最初のプライバシー侵害訴訟である。'64有田が死去す前年、東京地裁はモデル小説にもプライバシー権を認め、三島に賠償金の支払いを命じている。 この一連を「『宴のあと』事件」という。有田没後に遺族との和解が成立。
 '36勲一等瑞宝章受章。'38勲一等旭日大綬章受章。'59『馬鹿八と人はいう』を刊行。享年80歳。

<コンサイス日本人名事典>
<日本史小辞典>
<人物20世紀>
<「政治とオンナ」岩見隆夫>


墓所

*有田家の墓所は広大であるが、周囲の墓石とは異なり、一般的な大きさの墓石が3基建つ。 正面に「有田八郎之墓」と「有田安子之墓」が同じ大きさで並んで建つ。有田安子は前妻である。 二人の墓石の間の後ろ側に観音像が建つ。二人の墓の右側に「有田家之墓」が建ち、その更に右側に墓誌が建つ。 養父母、前妻等の刻みがある。有田八郎の戒名は冨岳院殿八望秀朗大居士。


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