岡山県出身。自治大臣・参議院議長を務めた安井謙は弟。東京帝国大学独法科卒業後、内務省に入省、茨城県・神奈川県で警視を務める。
1928(S3)内務省を退官し、第一回普選に茨城県から立候補するも落選。内務省に復帰し、富山・兵庫・福島各県警察部長をへて、'29(S4)東京市保健局長兼社会局長となる。
'31宇垣一成(6-1-12-1)が朝鮮総督となると、その秘書官となり、朝鮮総督府専売局長、京畿道知事などを歴任。
拓務省拓務局長をへて、'40第34代新潟県知事に就任、翌年退官。東京市電気局長をつとめ、戦後'46幣原喜重郎内閣で厚生省事務次官となるが、内閣総辞職により退任。
同年7月に第六代東京都長官に起用された。'47前年の東京都制改正で公選となった東京都長官に立候補。
安井は自由党・民主党の支援を受け、日本社会党推薦の田川大吉郎(23-1-12-13)らを破って当選した。
同年5月3日の地方自治法施行により、安井は初代の東京都知事となった。以後、'59(S34)まで3期つとめた。
都知事としての功績は、首都圏構想の樹立、太平洋市長会議の実現、オリンピック東京大会の招致など業績は数えきれないが、廃墟と化した首都東京を敗戦後の想像を絶する苦難の中で、戦後復興や都民の食料確保に力を振るい、高度成長期のさきがけを作った努力と才腕である。
都知事在任中に'47〜'48初代東京都共同募金会会長、'49〜'61第二代日本善行会会長を務めた。
都知事退任後は名誉都民に推され、'60東京1区から自由民主党公認で衆議院議員に立候補し当選するも、任期中に死去した。享年70歳。没する五日前に勲一等旭日大綬章授章。正三位。
*墓石は洋型で「安井家」と刻み、裏面が墓誌となっている。右から1才で亡くなった長男の安井一雄(S4.12.5歿)、妻の安井滋野(S31.12.19歿・63歳)、一番左に安井誠一郎が刻む。「安井家」墓石の右側に地蔵墓、左側に誠一郎の長女の墓石が並んで建つ。左側の墓石の前面「瑞光院浄想昭容大姉」、右面「俗名 八角安希子(昭子)昭和五十三年三月二十二日歿 行年五十九歳」、裏面「昭和五十三年六月 中野則宣 多和代 建之」と刻む。なお墓所入口左手側に次女の和子(佳津江)が嫁いだ尾平(おだいら)家の墓石が建つ。洋型「尾平家」墓石の裏面が墓誌となっている。和子の夫の尾平聰男(おだいら としお:2009.3.15・91才)は東京高速道路社長や銀座インズ社長を務めた実業家。新橋ライオンズクラブ会長、幹事、名誉顧問を務めた人物である。加えて、墓所右手奥側には安井誠一郎のミニチュアの銅像も建つ。
*安井家墓所のすぐ右側に、安井誠一郎像が建つ。
*東京文化会館(台東区上野公園5-45)に『安井誠一郎先生』の像がある。
*なお、安井の後を継いだ東京都知事は東龍太郎(16-1-13-17)、継いで美濃部亮吉(25-1-24-1)は、全員多磨霊園に眠っている。
【名誉都民】
名誉都民とは、東京都が功労ある都民を顕彰するために贈呈する称号である。
称号贈呈は'53(S28)にはじまり、第1号は東京市市長を務めた尾崎行雄、植物学者の牧野富太郎。
以来、医療、文化、芸能、学術、教育、国際交流、スポーツ分野で功績のあった他民に対して称号の贈呈がなされている。
主な多磨霊園に眠る名誉都民は下記の人物である。*人物名(肩書き・名誉都民贈呈年)
徳永 恕(社会福祉事業家・'54)
川合玉堂(日本画家・'55)
前田多門(政治家・'55)
安井誠一郎(初代東京都知事・'62)
小泉信三(慶応大学塾長・'65)
徳川夢声(活弁家・'65)
東 龍太郎(東京都知事・'81)
賀川ハル(社会事業家・'81)
井深 大(実業家・'93)
松島正儀(児童福祉家・'95)
金田一春彦(言語学者・2001)
松平康隆(日本バレーボール界の父・2007)
第66回 初代 東京都知事 安井誠一郎 お墓ツアー 東京を復興させた人
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