東京市牛込区下戸塚町(新宿区西早稲田)出身。父方祖父は播磨国安志(あんじ)藩小笠原家の家老だった人物。徳永行蔵の次女として生まれる。幼少時から銀座美以教会に通い、1902 高女在学中に洗礼を受ける。キリスト教に入信する一方、国禁の書である社会主義者の小説を読み、トルストイの人生論に耽った。また、結核を患った友人の看病のために欠席が多くなり留年したエピソードもある。
'05(M38)たまたま通りかかった四谷鮫河橋の空き地に立てられた「私立二葉幼稚園建設敷地」と書かれた看板を見たのが、二葉幼稚園との最初の出会いである。翌年、同じ道を通ると、移転した二葉幼稚園が開園しており、保母になる決心をしたという。'07 夏休みの期間、二葉幼稚園の手伝いをし、職員希望であることを伝える。'08 東京府立第二高等女学校を卒業後さらに補習科に進み、教員養成コースを修了。修了と同時に二葉幼稚園に入り保母となり、幼児教育に奉仕。
'13(T2)野口幽香と共に東京中のスラム街を巡視、貧民救済の必要性を強く感じ、世間に訴え募金を集め、新宿分園を開設。'16(T5)開設当初より実質的には保育園であったため、二葉幼稚園を「二葉保育園」と改称。これが日本最初の保育園となる。'17 東京府管内の慈善救済事業の連絡、改良発達 等を目的に東京府慈善協会が発会した。徳永は理事になり、二葉保育園は評議員に指名される。日本のフレーベルこと幼児教育研究実践家の倉橋惣三(3-1-16)は東京府慈善協会の保育分科会に惜しみない協力をした。また神戸で戦没記念保育会を育ててきた生江孝之(14-1-22-15)も協力している。
その後は不就学児童のための小学部を設置し、'21 日本ではじめての母子寮「母の家」を創設して、園長の野口幽香を助け救済事業に尽力した。'22 学童保育を開始し、夜間診療部も開設。医師も招き、看護婦の資格を持っていた保母をはじめ、保母全員が交代で患者の世話も行う。他にも商品を安い値段で売る廉売(れんばい)部、工場で働く少女のために夜間裁縫部を設置。'23 関東大震災により保育園は半壊したが、翌年には新宿分園を再開。'28(S3)本館を改築し、母の家を増築した。
'31(S6)野口幽香の後継者として、第二代園長に就任。'32 新宿分園で五銭食堂を開始。'35 二葉保育園を公益法人化し、引退した野口幽香の後を継ぎ、理事長に就任した。この間、東京府の共済委員制度の施行にあたって委員となり事業の発展に貢献。保育事業や社会福祉事業の功績より、'40 藍綬褒章を受章。
戦争で園が空襲で焼失する悲劇にあいながらも、再建再会をし、戦後も二葉乳児院、養護施設二葉学園を設立する。さらに未亡人や戦争孤児浮浪児の収容保護にも従事した。東京都民生委員をはじめ中央児童福祉審議会委員、東京都社会福祉協議会委員を歴任。
'54.10.1(S29)前年から選定された名誉都民に、政治家の尾崎行雄、植物学者の牧野富太郎に次いで、三人目、女性としては初の名誉都民に顕彰された。'63 朝日賞(社会奉仕賞)。'64勲4等瑞宝章。「子どもたちの結ばれた人間です」と、生涯を独身で通し、貧しい人々に捧げた生涯であった。享年85歳。
<日本女性人名辞典> <上笙一郎、山崎朋子 『光ほのかなれども−二葉保育園と徳永恕』>
明治末、東京一の貧民街・四谷鮫河橋を通りかかった女学生の徳永恕は、恵まれない子どもたちと共に生きる決心をした。自らの幸せを捨て、生涯を"保育"に捧げたその歩みは、そのまま日本の幼児教育と社会福祉の歴史である。
山崎朋子著の『光ほのかなれども―二葉保育園と徳永恕』(光文社文庫)にその生涯が綴られている。
*墓所に墓石は3基。右は自然石で前面に「二葉保育園の母 野口幽香 徳永恕 ここにねむる」。右側に墓誌が建つ。墓所真ん中に自然石「大屋久壽雄 家」、裏面に大屋久壽雄の没年月日が刻むが他に刻みはない。大屋久壽雄はジャーナリストとして活動していたがカリエスのため44歳で亡くなる。そのためこの墓石は久壽雄の母で「母の家」初代主婦を務めた大屋ムメ(梅子)が建立。ムメ、久壽雄の妻の歌も眠る。墓所左側に洋型「梅森家」。裏面が墓誌となっておりキリスト教伝道者の梅森豪勇から刻みが始まる。豪勇の妻の梅森幾美は徳永恕の妹であり、二葉保育園の理事を務めた。
*墓誌は野口幽香から刻みが始まる。伊藤英子、原藤房子、田所亀代、井坂たま、加藤道子が刻み、没年月日より1945.3.10 東京大空襲で命を落とした二葉保育園の職員の名が刻む。その後に同じく空襲により亡くなった母子らの名前の刻みが続き、その後に戦後十年間の死亡児二十二名の名前が刻む。二葉保育園の職員として生涯を捧げた駒形和江、山口よと が刻む。
第343回 二葉保育園の大黒柱 貧しい人たちのために尽力 女性初名誉都民 徳永恕 お墓ツアー
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