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おおや むめ

大屋ムメ

おおや むめ

1888.1.25(明治21)〜 ?

大正・昭和期の母子保護事業家、
「母の家」初代主婦

埋葬場所: 23区 1種 60側

 福岡県出身。旧姓は菅。1902(M35)福岡英和女学校初等科卒業後、東京府立第二高女、福音教会伝道女学校を経て、'06 福岡英和女学校専科卒業。同.7 医者の大屋雄三郎と結婚。
 '07 福岡県大牟田市美以教会伝道婦に任命される。翌年、家事の都合で退職し、以後は専業主婦として育児。しかし、まだ子どもたちも幼い時に、'24.1(T13)夫に先立たれ路頭に迷う。そんな折、府立第二高女時代の親友であり、当時二葉保育園主任であった徳永恕(同墓)の後押しもあり、長男の久壽雄(同墓)ら子どもたちを連れて福岡から上京。同.3 二葉保育園の「母の家」の初代主婦に就任した。「母の家」は日本ではじめての母子寮であり母子ホームの先駆といわれている。同.9 東京少年審判所嘱託保護司にも任命される。
 野口幽香(同墓)や徳永恕からの絶大な信頼のもと、住み込みで「母の家」を任され、'44(S19)健康上の理由で退職するまでの間、36歳から56歳の約20年間を母の家の主婦として母子保護事業に従事した。母の家には「乳児を抱えて俄に夫に逝かれた若き寡婦」や「多数の乳児をのこして置き去りにあった力なき母」などが集まった。ムメも父なき家族の保護を受けた身であるため、同じ現況の人たちにまず安全な住居を与え、職業教育を行い、また日常生活の友となり寄り添った。なお、その間、'32(S7)東京府方面委員に任命され、'36 東京市教職委員にも任命、'39 司法保護委員に任命された。
 戸籍上ではムメが正しい名称であるが、呼びにくいため「梅」あるいは「梅子」と呼ばれ、大屋梅子としても親しまれた。また一時、ムメの母方に子がなかったため、その姓「菅」を名のり、菅ムメとしたこともある。ムメの三男の故良が菅の籍に入っている。

<母子寮の役割・機能に関する歴史的研究−二葉保育園母の家の場合− 川西康裕>


墓所

*墓所に墓石は3基。右は自然石で前面に「二葉保育園の母 野口幽香 徳永恕 ここにねむる」。右側に墓誌が建つ。墓所真ん中に自然石「大屋久壽雄 家」、裏面に大屋久壽雄の没年月日が刻むが他に刻みはない。この墓石はムメが建立したため、ムメ、久壽雄の妻の歌も眠る。墓所左側に洋型「梅森家」。裏面が墓誌となっておりキリスト教伝道者の梅森豪勇から刻みが始まる。豪勇の妻の梅森幾美は徳永恕の妹であり、二葉保育園の理事を務めた。


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