福岡県出身。旧姓は菅。1902(M35)福岡英和女学校初等科卒業後、東京府立第二高女、福音教会伝道女学校を経て、'06 福岡英和女学校専科卒業。同.7 医者の大屋雄三郎と結婚。
'07 福岡県大牟田市美以教会伝道婦に任命される。翌年、家事の都合で退職し、以後は専業主婦として育児。しかし、まだ子どもたちも幼い時に、'24.1(T13)夫に先立たれ路頭に迷う。そんな折、府立第二高女時代の親友であり、当時二葉保育園主任であった徳永恕(同墓)の後押しもあり、長男の久壽雄(同墓)ら子どもたちを連れて福岡から上京。同.3 二葉保育園の「母の家」の初代主婦に就任した。「母の家」は日本ではじめての母子寮であり母子ホームの先駆といわれている。同.9 東京少年審判所嘱託保護司にも任命される。
野口幽香(同墓)や徳永恕からの絶大な信頼のもと、住み込みで「母の家」を任され、'44(S19)健康上の理由で退職するまでの間、36歳から56歳の約20年間を母の家の主婦として母子保護事業に従事した。母の家には「乳児を抱えて俄に夫に逝かれた若き寡婦」や「多数の乳児をのこして置き去りにあった力なき母」などが集まった。ムメも父なき家族の保護を受けた身であるため、同じ現況の人たちにまず安全な住居を与え、職業教育を行い、また日常生活の友となり寄り添った。なお、その間、'32(S7)東京府方面委員に任命され、'36 東京市教職委員にも任命、'39 司法保護委員に任命された。
戸籍上ではムメが正しい名称であるが、呼びにくいため「梅」あるいは「梅子」と呼ばれ、大屋梅子としても親しまれた。また一時、ムメの母方に子がなかったため、その姓「菅」を名のり、菅ムメとしたこともある。ムメの三男の故良が菅の籍に入っている。