福岡県嘉穂郡千手村(嘉麻市)出身。医者の大屋雄三郎と後に「母の家」初代主婦となるムメ(同墓)の長男として生まれる。'24.1(T13)父が亡くなったことを機に、母が同級生である徳永恕(同墓)の後押しもあり一家で上京して、同.3 二葉保育園の「母の家」(母子寮)に入居した。母は「母の家」初代主婦に任命される。
1930(S5)成城高等学校卒業。卒業後、シベリア経由で欧州へ渡り、フランス・リヨン大学文学部に留学。'33 帰国し、同.10 新聞聯合社に入社し社会部員の記者となった。
'36 国家代表通信社の設立を提唱していた岩永裕吉(9-1-4-7)が創立し初代社長に就任した同盟通信社に入り社会部を担当。'37.9 北支派遣、'38.8 ハノイ支局長。'39.9 第2次大戦勃発とともに欧州に派遣され、イスタンブールを拠点にパリ・ウィーン・バルカンなどの欧州移動特派員として活動した。
'41.2 帰国し、同盟通信社会部次長に着任。政経部を経て、'44.7 日本放送協会に出向、海外局編成部長になり、'45.8 終戦とともに出向解除となって同盟通信社に戻った。しかし、同.10 同盟通信社が解散となり、翌月に共同通信社と時事通信社が分派し創立し、大屋は時事通信社の内信部長に就任した。その後、事業局長に転じ、時事年鑑復刊に当り卓拔な編集企画により成功をおさめた。
社業基礎確立のため熱意と才幹を傾けたが、'48.1 出張先でカリエスを発病。以来自宅療養生活に入る。療養中も寸時も社業も忘れることなく、連日にわたり意見書「大屋レター」を関係者に送り、社業発展の推進役をつとめた。しかし、発病してから3年後に逝去。享年44歳。'51.12.25 葬儀が青山斎場で執り行われた。式は無神論者であった本人の遺志に添うべく無宗教葬として営まれ、会葬者は実に四百余名に達し盛儀をきわめた。
日中戦争の勃発から第2次大戦初期にかけて欧州移動特派員として取材等見聞きしてきたことや、現地の様子、風景、人物描写等々をまとめた『戦争巡歴』と題した未発表の原稿が70年(執筆開始日は1946年1月)の時を経て発見された。この遺構は鳥居英晴の編集により、2016(H28)『戦争巡歴−同盟通信記者が見た日中戦争、欧州戦争、太平洋戦争』として出版された。