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いわなが ゆうきち

岩永裕吉

いわなが ゆうきち

1883.9.13(明治16)〜 1939.9.2(昭和14)

大正・昭和期の通信事業経営者

埋葬場所: 9区 1種 4側 7番

 東京出身。衛生行政創立者で「衛生」という言葉を生んだ男爵の医学者の長与専斎の4男。兄も男爵の医学者の長与称吉、次兄の長与程三は実業家、三兄の長与又郎は病理学者、弟の長与善郎は白樺派の作家。 1890(M23)母の弟で、叔父にあたる日本郵船専務の岩永省一(同墓)の養子になる。
 1909 京都帝国大学卒業。'10 高文試験に合格し、'11 満鉄大連本社に入社する。'17(T6)満鉄を退社して寺内正毅内閣の鉄道院総裁であった後藤新平の秘書官となります。'18 退官し、欧米各国外遊を経て、'20 岩永事務所を創設し、「岩永通信」を発刊した。
 '23 古野伊之助の呼びかけで国際通信社の専務取締役に就任し、通信事業に本格的に参入、ロイター通信との関係を強化するとともに地方紙との通信契約の拡大に努力した。'26国際通信社と東方通信社が合併し日本新聞連合社が誕生して専務理事。'36(S11)日本をめぐる国際関係が悪化したので、国家代表通信社の設立を提唱して、軍部・政府に働きかけライバルの日本電報通信社と連合の合併した社団法人同盟通信社を誕生させ初代社長に就任。同盟通信社は中国・東南アジア各地に支社をもち、国家代表の通信社として活動。社団法人の通信社設立は経済的に全く見返りのない仕事であり、岩永は個人の私財を出し「日本の主張を世界に発信する」という大義に生きた。
 同盟通信社社長を務めながら、1938.12 より貴族院議員に勅撰され政治活動もしていたが、健康を害し、翌年保養先の軽井沢にて狭心症のため逝去。享年55歳。
 岩永没後の同盟通信社は古野伊之助が2代目社長となる。戦後日本の太平洋戦争敗戦に伴う解体を予測した古野は、同盟通信社を「共同通信社」と「時事通信社」に分割した。共同通信社は一般報道部門、時事通信社は経済報道部門の通信社として現在に至る。

<コンサイス日本人名事典>
<朝日日本歴史人物事典>
<講談社日本人名大辞典>
<人事興信録など>


墓所 碑

*正面「岩永家之墓」、裏面「昭和十七年七月吉日 岩永陽一 建之」。左側に墓誌が建ち、大村藩士の岩永勝馬・カメ夫妻から刻む。次に海運事業家として活躍した岩永省一・郷子(さと)夫妻が刻む。省一は勝馬の養子(旧姓は後藤)。その次に岩永裕吉・鈴子夫妻の刻みが続く。

*墓所右側に「岩永初代社長ノ霊ニ捧グ」と題し岩永裕吉の略歴が刻む碑が建つ。この碑は「昭和十五年九月二日 社団法人同盟通信社」と最後に刻み、碑の台座に「同盟」のロゴマークも刻む。

*岩永裕吉の妻は鈴子。鈴子は獣医学者で東京帝国大学教授・田中宏の娘。二人の間に1男4女を儲ける。長男の岩永信吉は共同通信特進局長や常務理事を務めた。長女は愛子、二女は華子、三女は照子、四女は友子(同墓:服部)。岩永信吉の妻は清(H19.7.11歿)は岩井貞麿の長女。1男2女を儲ける。長男の岩永陽一(1954生)は共同通信社常務取締役などを務めた。墓石建立者が岩永陽一と刻むが、建立年月日には陽一はまだ生まれていない。

*岩永省一没後の墓所は東京本郷駒込吉祥寺であったが、その後、染井霊園に移り、1942(S17)多磨霊園に改葬された。岩永裕吉の最初の埋葬場所が染井霊園時代であったかは不明。



第279回 近代的通信社創設の立役者 同盟通信社 初代社長
岩永裕吉 お墓ツアー 海事事業 岩永省一


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