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きんだいち はるひこ

金田一春彦

きんだいち はるひこ

1913.4.3(大正2)〜 2004.5.19(平成16)

昭和・平成期の言語学者、国語学者

埋葬場所: 9区 2種 7側 29番

 東京市本郷区森川町(東京都文京区)出身。父はアイヌ語研究などの言語学者の金田一京助・静江の長男として生まれる。東京府立第六中学校、旧制浦和高等学校文科甲類に入る。1933(S8)寮を出て浦和市岸町の母子家庭三上家に下宿する。この家の長女の珠江(当時小学校2年生)が後の春彦の妻となる。
 はじめは作曲家を志し、本居長世に弟子入りしようとしたが、本居の神業のようなピアノ演奏に圧倒され作曲家を断念する。しかし、本居の日本語のアクセントを大事にする作曲法に触れ、父と同じく国文学者を目指す。'34東京帝国大学文学部国文学科に入学。卒論では、平安時代のアクセントを示す好個の資料である観智院本『類聚名義抄』を題材にして、日本語のアクセントを歴史的に研究した。
 '37卒業し東京帝国大学大学院に進む。東京方言学会に入り、埼玉県東部方言のアクセントの調査・研究発表をし高く評価された。'38.4.16大学院に籍を置いたまま、通常の徴兵検査を通して陸軍に応召。二等兵として甲府歩兵第49連隊に入営。間もなく朝鮮半島に送られ、京城(ソウル)郊外の龍山歩兵第79連隊に移された。新兵に対する激しいしごきに耐え兼ねそうな時に、「若い頃に結核を患った痕跡がある」との診断を受け、龍山の陸軍病院に入院する。秋に首尾よく除隊となり、半年ぶりに帰京。'39大学院に復帰後は全国各地の方言のアクセント調査の研究を行う。当初は方言学の研究学者を志していたものの、方言学の論文を書いても就職できないことを知り、日本語の歴史的研究に転ずる。
 '40東京府立第十中学校(都立西高等学校)国語教師として赴任。三省堂『明解国語辞典』の標準アクセント表記の担当もした。'42日華学院に移り、中国人に日本語を教える。中国人学生から「知っている」の対義語は「知っていない」ではなく「知らない」と言うのはなぜかというような日本人にはない視点から質問を受けるなど学問的に大いなる刺激を得たと回想している。併行して国際学友会の嘱託となる。同.11.6高校時代の下宿先の娘の三上珠江(当時17歳)と結婚。
 '44実践女子専門学校講師、フィリピン協会にも勤務し、フィリピン人やビルマ人、マレー人に日本語を教える。'45.5日華学院が空襲を受けたため、埼玉や東京の西多摩郡(羽村)に疎開し終戦を迎える。戦後、日華学院廃校に伴い無職となり、三省堂常務の平井四郎へ相談し『明解古語辞典』の編集の仕事をもらう。また東京大学講師も務めた。
 '47浦高時代の級友でNHK局員・アナウンサーとして活動し終戦の詔勅の録音盤を守った著名な館野守男の仲介によりNHK「ラジオ民衆学校」に出演して、日本語アクセントについて話す。これをきっかけにNHKと深く関わることとなり、同.12 NHK「ことばの研究室」の常任講師となる。'48NHKアナウンサー養成所講師(〜'77)を務めたことにより、書き言葉中心であった旧来の国語学から話し言葉中心の国語学を構想する契機を得る。'49国立国語研究所研究員。同.2 NHKアクセント辞典改訂に外部委員として参加した。
 '50自ら監修に携わった三省堂の中学国語教科書『中等国語』がベストセラーとなり、3年後には日本全国の中学校の3分の1で採用される。'52.11ラジオ東京アナウンサー養成所講師。'53三省堂『明解古語辞典』を発刊。国立国語研究所を辞して、東京在住のまま(6時間かけて通勤)名古屋大学助教授となる(〜'59)。'54.5 国語学会幹事。'56国際基督教大学講師。同.11.12言語学研究会設立総会にて評議員に選出された。'57岩波親書から『日本語』を刊行しロングセラーとなる。'58.7 東洋音楽学会理事。'59東京外国語大学助教授を兼任(名古屋大学は集中講義のみ)。'61東京外国語大学教授に就任。
 '62.2.3明恵上人作詞作曲と伝える声明の一曲「四座講式」を手がかりに、鎌倉時代の日本語のアクセントを論じた言語学と邦楽学の双方にわたる内容の博士論文『四座講式の研究』が東京大学から文学博士号を授与される。同.7 NHK用語委員。'63「吉展ちゃん誘拐事件」が発生し、テレビで犯人の身代金要求の電話の音声を聴いた際、「この発音は茨城か栃木か福島だよ」と呟き、それを聞いた珠江夫人がNHKに電話した。その後、逮捕された犯人が茨木県と栃木県に境を接する福島県南部出身者だったことでメディアに注目された。'64.12.18『四座講式の研究』が契機となってポリドールから出した真言宗の仏教音楽のレコード『真言声明』(自身が監修)がレコード部門芸術大賞を受けた。'65東京藝術大学音楽部講師(〜'71)。
 '68.2から4か月間ハワイ大学で客員教授。その滞在中に自らの不注意で交通事故を起こし罰金刑を受ける。学園紛争の煽りを受け、'70.3停年退官前に東京外国語大学教授を辞任、退職。'71京都産業大学外国語学部教授に就任。'72上智大学講師となり、'74より同大学教授となる。'75日本琵琶学協会会長。'77慶應義塾大学国文科講師(〜'80)。同.11.18紫綬褒章を受章。また日本放送協会放送文化賞も受賞した。'78東郷学園講師(〜'81)。
 '82国語学会代表理事(〜'85)。同.12師本居長世の伝記『十五夜お月さん』を刊行し、翌.3.25芸術選奨評論部に入賞し文部大臣賞を受賞した。更に、同.11.15毎日出版文化賞、同.11.19日本児童文学学会賞も受賞した。'84武蔵野女子大学客員教授(〜'89)。'86勲三等旭日中綬章。'88.4 半年間、タモリの「笑っていいとも」(フジテレビ)金曜日のレギュラーとなりお茶の間で人気を博す。
 '89(H1)玉川大学客員教授(〜2002)。また津田塾日本語教育センター主席講師となる(後に顧問)。同年起きたリクルート事件に関して「今の日本は文化が発展している。天平文化や元禄文化など、日本の歴史上で文化が発展したのはそのほとんどが悪政が敷かれた時代。現在の文化発展は政府による悪政のおかげ」と渦中の竹下登が主催した総理大臣園遊会の招待客代表スピーチで述べて新聞に取り上げられた。'97文化功労者。'98歌集『白いボート』を刊行。2000.10『四座講式の研究』で密教学芸賞を受賞。同.12別荘の所在地である山梨県大泉村から名誉村民に選ばれた。大泉村には40年前から夏を過ごし、図書館に蔵書を寄付するなど村との親交が深かった。生前より大泉村の村役場前のメインストリートは「金田一春彦通り」と命名されている。
 主に日本語の音韻について研究を続け、アクセントの歴史的変化の分析や体系化、方言の調査分析と系統化などで業績を残す。「カミ」「クシ」などの二音節名詞のアクセントを5つの群に分類し、日本国内のどこの方言でもこれら5種類のパターンの組み合わせで分類できることを明らかにし、また全国の方言アクセントについて平安時代京都アクセントからの変化過程を詳細に推論した。1950「国語動詞の一分類」を発表して日本語の動詞を4つの類型に分類し、アスペクト研究を飛躍的に発展させた。「言葉は時代とともに絶えず動いて変化する」が持論。ら抜き言葉に関しては「ら抜き言葉はなくならないし、ら抜きに進んでいくのが自然な流れである」とコメントしている。
 こうした研究が実際に犯罪捜査で参考にされ、その人柄とともに研究、著作が学術界にとどまらず広く一般に知られた。邦楽や童謡についても造詣が深く、平曲の研究家として平家琵琶の譜の読み方、奏法、歴史などを解明。童謡や唱歌の普及にも尽力した。2001(H13)東京都の名誉都民に選ばれる。クモ膜下出血のため甲府市の病院にて逝去。享年91歳。瑞宝重光章追贈。 亡くなった2004年末の第46回日本レコード大賞で特別功労賞を受賞。

<講談社日本人名大辞典>
<ブリタニカ国際大百科事典>
<NHK人物録など>


墓所

*墓石は和型「金田一家之墓」。裏面は「平成十四年七月 金田一春彦 建之」と刻む。左側に墓誌がある。戒名は春光院細雨鳩鳴大居士。同墓には春彦の妹の金田一若葉(蓮葉院水月鏡心大姉:29才歿と刻む)、若葉の夫で東京工業大学有機化学教室助手を務めていた化学者の金田一正弘(蓮光院智月正葉居士:S31.2.8 行年35才)も眠る。金田一正弘は高分子化学協会にて「アルキノールの定量について」合同論文を発表するなど、将来を期待された化学者であったが、35才の若さで亡くなっている。結婚一年目で若葉が亡くなっているため二人には子がおらず、墓所は若葉の兄の春彦が継承していた。


【金田一家】
 金田一家は、岩手県盛岡四ツ家町が清家である。金田一京助の曽祖父の伊兵衛勝澄が米穀商として一代で財を成し、大飢饉の際、蔵を開いて町の人を飢えから救い、南部藩の士分に取り立てられた名家であった。京助の父の久米之助(旧姓は梅里)は農家の出身だったが、才能を買われてヤスの婿養子になるも事業が上手くいかず苦労が絶えなかったようである。しかし、ヤスの長兄(春彦の大伯父)の金田一勝定が事業で成功し、また和算家としても著名であったことで、京助の家は援助され子どもたちは生活苦を知らずに育った。勝定の娘のリウに婿養子として入った金田一国士も事業で成功した実業家であり、国士の孫にあたる金田一敦子は大映映画で女優として活躍した人物である。
 京助は東京に出、言語学者として活躍。静子との間に1男4女を儲けた。長女の郁子、二女の弥生、三女の美穂は早死。四女の若葉は28歳の若さで没している(下記参照)ため、天寿を全うしたのは春彦のみである。春彦の父、金田一京助の墓は雑司ヶ谷霊園(1-22-5)にある。
 春彦と珠江の間には2男1女を儲ける。長男の金田一真澄はロシア語学者で、慶應義塾大学理工学部教授、同外国語研究センター所長を兼任。次男の金田一秀穂は三世代の言語学者として活躍、杏林大学外国語学部教授。長女の美奈子はゴルフライター。孫の金田一央紀(秀穂の子)は演出家でパフォーマンス団体・Hauptbahnhof主宰している。


【金田一若葉 きんだいち わかば 1921(T10)-1949.12.23(S24) 金田一京助博士の愛嬢自殺『宿命の淋しさ』から玉川上水へ】
 東京出身。金田一京助の4女、金田一春彦の妹。
 1949.12.23(S24)午後1時頃、「福引をひきにゆく」と言い外出したまま帰宅せず、夕方5時頃に帰宅した夫の正弘がタンスの中から遺書を発見。杉並署に捜索願を出した(自宅は東京都杉並区東田町)。捜査が開始された午後5時10分頃、井ノ頭公園御殿山裏の玉川上水の万助橋付近を流されて行く若い女を通行人が発見したが、急流のため救出できずそのまま下流へ姿を見失ってしまった。現場に急行した夫の正弘は拾いあげられたゲタを見て妻のだと確認。自宅に遺書があったことからも投身自殺したのだろうと察したが、死体はついに発見されなかった(後日発見されたと思われる)。
 若葉は幼少より体が弱く、更に戦局悪化により粗悪な生活を余儀なくされ酷使していた。東京が空襲をうけるようになっても、父の京助は日本の勝利を疑わず動かなかったため、結婚して実家から離れて生活をしていた兄の春彦が疎開をすすめ、奥多摩の服部四郎の用意してくれた部屋に母と若葉と蔵書を預けた。幸い実家は焼けずに済んだため、終戦後戻るも、病弱体質に変化はなく、戦後の食糧難も重なり回復の兆しもない状況が続いた。
 1948.12.15 東京工業大学有機化学教室助手を務めていた化学者の正弘と結婚。正弘は金田一家の婿養子となり京助たちと同居した。その一年後、若葉は体が弱く生きていく自信がなくなったと遺書を残して入水したのである。遺書はタンスの中から正弘が帰宅後すぐに発見した。両親と正弘に宛てた遺書には下記のように記されていた。

 「私につきまとうしつような淋しさ・・・それから逃れるには生も無も怒りも悲しみも訣別もない“無の国”へ行くより仕方がありません、このような淋しさは子供のころから持合せた宿命的なもの、決して境遇のせいではございません、最後まで悪い妻でしたことをお許し下さいませ・・・」

 玉川上水は1653.4.4(承応2年)玉川兄弟らが幕府の命で開削工事を開始し、同.11.15 羽村から四谷大木戸まで開通。翌年には虎ノ門まで引かれ、江戸市中への通水が開始された人口の川である。現在は整備され緩やかな流れになっているが、当時は急流であり自殺の名所として有名で、昭和40年頃までは毎年10人程度の自殺者があったという。
 最も有名とした事件が、若葉が自殺をした前年、1948.6.13 太宰治が愛人の山崎富栄と共に玉川上水にて入水自殺を遂げたことである。若葉が自殺をする一か月前の1949.11.3 太宰の墓前で田中英光が服毒自殺もしている。また当時は、ヒロポンのような麻薬や、催眠鎮静薬のアドルムを大量に摂取するアドルム自殺が流行していた時期とも重なり、戦後すぐの日本に暗い影を落としていた時代的背景もある。

<読売新聞1949年12月25日朝刊など>


【金田一京助「水難者慰霊碑」(杉並区久我山1-10)】
 杉並区久我山の兵庫橋の少し上流の南岸に、「水難者慰霊碑」が建つ。昭和24年に投身自殺した愛娘の若葉への弔歌が刻む。

うれひなく さちかきりなき あめのくにに さきそひいませ とはやすらかに

  金田一京助 昭和廿七年十二月 杉並文化新聞社建之


※多磨霊園に眠る【名誉都民】は安井誠一郎の頁へ


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