肥前国西大村(長崎県)出身。大村藩士の長男として生まれる。1890(M23)東京専門学校卒業後、郵便報知新聞に入社。1892.9都新聞に移り新聞記者として活動。1894日清戦争に従軍し、陸軍通訳官となる。1896.5〜1897.8台湾の新聞『台湾新報』に勤めた。
1902.8 第7回衆議院議員総選挙長崎県郡部区に立候補するが落選。続けて、翌年.3 第8回衆議院議員総選挙長崎県郡部区に立候補したが、これも落選した。
'04.6〜'05.9 日露戦争に従軍し、陸軍通訳官として第4軍とともに中国を転戦した。'08.5 第10回衆議院議員総選挙長崎県郡部区に3度目の立候補をし初当選(以後、補欠選挙を含め9回当選)。
同年より東京市の助役(〜'14)を務める。'17.1(T6)元老山県有朋を批判する論文を発表したが新聞法違反で有罪とされ、'18.4〜6までの二か月間、収監された。'19.3尾崎行雄、望月小太郎とともに渡欧。
クリスチャンとしても活動しており、'23.11日本基督教連盟常議員に就任。'25 第3代明治学院大学総理に就任。後に世界平和協会理事長にも就任している。
'42.4(S17)第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)では非推薦で立候補し落選。この選挙の際に盟友であった尾崎行雄が田川のためにした応援演説が、後に尾崎不敬事件につながっていった。
平和活動を理由として官憲から監視されたため、'43.3上海に出国。帰国は終戦後の'46.4であった。
田川の政治活動は、又新会・立憲国民党・中正会・憲政会・革新倶楽部・同交会などに所属、戦闘的自由主義者として活躍。戦時中も軍部の圧力に屈しなかった。戦後、日本社会党に入党。
'47.4.5(S22)初の公選選挙である東京都知事選挙に日本社会党から立候補。8人の立候補者で争われ、無所属で官選で都知事経験がある安井誠一郎(705,040票)に、次点(615,622票)で落選した。
直後(4.25)に実施された第23回衆議院議員総選挙に東京5区から立候補し当選した。同年、議員在職中に逝去。享年77歳。衆議院において追悼演説が行われた。
主な著書に、『英国の王室及議会』(1920)、『都市政策汎論』(1925)、『政党及政党史』(1929)などがある。