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かがわ はる

賀川ハル

かがわ はる

1888.3.28(明治21)〜 1982.5.5(昭和57)

明治・大正・昭和期の社会事業家

埋葬場所: 3区 1種 24側 15番
〔松澤教会会員墓地〕

 神奈川県横須賀出身。芝房吉・むらの長女。旧姓は芝。後年はる子、春子と名のる。1902(M35)東京豊島小学校卒業。 15歳の時東京日本橋の相場師の家に奉公し、父の転勤で神戸に転居、印刷女子工員になる。
 1911(M44)賀川豊彦のスラム救済事業を知り、仕事を続けながら奉仕活動に従事。 1913(T2)5月27日、賀川豊彦と結婚。夫から代数や幾何を学び、生理学や動物学をも学んだ。 スラムに住み巡回看護婦の仕事を毎日続けるうち、悪性のトラホームに感染、右目は失明状態となった。 1914豊彦の渡米を機に横浜共立女子神学校に入学、1917卒業、眼の手術をうける。 1921神戸の川崎・三菱造船所の労働争議に覚醒婦人協会会長として労働者の救援活動にあたる。 翌年、豊彦とともに財団法人イエス団を設立し理事となる。1923関東大震災の被災者援護のため救済事業に従事。 1931(S6)松沢幼稚園を開設、1938福祉法人雲柱社の理事、1956から日本基督教婦人矯風会の理事をつとめた。 1960夫の豊彦と死別、イエス団、雲柱社の理事長として夫の事業を引継いだ。
 1981(S56)10月、69年間に及ぶ社会福祉活動の功績により名誉都民として顕彰された。享年94歳。 著書に『女中奉公と女工生活』『太陽地に落ちず』がある。

<日本女性人名辞典>
<五輪塔様より情報提供>


松澤教会会員墓地 松澤教会会員墓地 松澤教会会員墓地

*「松澤教会会員墓地」に眠る。レンガ作りの後ろ壁には、左側に「彼等は信仰によりて今なお誇る 松澤教会」とあり、右側には「主にある友と賀川豊彦ここにねむる」と刻む。墓所内には2つの大きな墓誌が建ち、両面に埋葬されている方々の名前が刻む。墓誌には1面に左19名、中19名、右19名の計57名が刻めるようになっており、2022年3月現在で4面に205名の名が刻む。

※松澤教会会員墓地側正面にある墓誌で墓地側の面を「墓誌1」とする。その墓誌の外側に向いている面を「墓誌2」とする。墓地左手側にある墓誌で墓地側の面を「墓誌3」とする。その墓誌の外側に向いている面を「墓誌4」とする。また、墓誌に刻む人物を紹介する際には、墓誌1〜4の「左、中、右」、上からもしくは下から何番目とする。

松澤教会会員墓地 墓誌1 墓誌1(*クリックで拡大)
松澤教会会員墓地 墓誌2 墓誌2(*クリックで拡大)
松澤教会会員墓地 墓誌3 墓誌3(*クリックで拡大)
松澤教会会員墓地 墓誌7 墓誌4(*クリックで拡大)

*賀川豊彦は「墓誌1」左・下から3番目。賀川ハルは「墓誌2」左・上から10番目。賀川商店社長・実業家、賀川豊彦の弟の賀川益慶(1893-1971.9.10)は「墓誌1」右・一番上。賀川純基は「墓誌3」右・上から2番目。賀川督明は「墓誌4」左・一番下。

*賀川家一族以外にも同墓には著名な方々も眠っている。賀川豊彦と活動をした農民運動家・政治家の杉山元治郎(墓誌1・中・上から4番目)、支那の農村経済運動家の刈屋久太郎(墓誌1・左・上から7番目)、キリスト新聞の立ち上げに尽力した小川清澄(墓誌1・左・上から11番目)、賀川を世に出した男で社会運動の開拓者である村島帰之(墓誌1・中・上から2番目)、小説家の鑓田研一(墓誌1・中・上から11番目)、賀川の使徒・オリジン電気創業者の後藤安太郎(墓誌1・右・上から3番目)、洋画家の佐竹徳(墓誌3・左・下から5番目)、賀川の弟子で『百三人の賀川伝』の著者の牧野仲造(墓誌3・左・上から9番目)、フレンド教会日本語牧師の高田松太郎(墓誌2・中・一番上)、在日大韓基督教大阪教会牧師の姜喜錫(墓誌1・中・上から5番目)主恩教会牧師の川上太郎吉(墓誌1・中・下から8番目)、救世軍人の難波義雄(墓誌1・中・下から6番目)らも眠る。



第31回 ノーベル平和賞と文学賞候補になった賀川豊彦 ハル お墓ツアー


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