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かがわ とよひこ

賀川豊彦

かがわ とよひこ

1888.7.10(明治21)〜 1960.4.23(昭和35)

大正・昭和期の社会事業家、
平和活動家、基督教伝道者

埋葬場所: 3区 1種 24側 15番
〔松澤教会会員墓地〕

 神戸出身。回漕業を営む賀川純一と芸妓のかめの次男として生まれる。 満4歳の時に父が病死し、母もその後間もなく病死したため、徳島の父の正妻に引き取られ養育された。 徳島中学在学時に米国長老派のローガン、マイヤース両宣教師と出会う。とりわけ、マイヤース夫妻から受けた影響は大きく、生涯精神的かつ財政的な援助を受けた。 1903(M36)兄の放蕩で賀川家が破産、叔父の家に引き取られる。翌年兄が死亡。こうした窮境の中でキリスト教信仰に導かれ、'04マイヤースから受洗。
 '05明治学院高等部神学予科に入学。図書館に所蔵されていたあらゆる本を読破したといわれる。'07新設の神戸神学校に転校。 この頃、重度の肺結核を患い入院し、医師から二度も死を宣告される。'09.12.24「どうせ死ぬのなら、自殺する勇気をもってすべてに向かって行こう」と貧民に伝道と奉仕をと決意(この時21歳)。 神戸市茸合区新川のスラムに居を移し、路傍伝道を始める。以後、'23(T12)関東大震災救援のため東京へ移住するまで、約10年余り新川のスラムに住み、伝道と貧民救済などの活動の拠点とした。 この間、'14〜'17米国プリンストン大学に留学し、進化論を中心とする生物学と神学を学ぶ。'15渡米前に託していた、新川での体験に基づいたスラム貧民の状況の独自の分析を著した『貧民心理の研究』が出版される。 新川のスラムでの活動では、賀川の姿勢に共感した馬島(18-2-56)、タッピング・ヘンリー(外-1-12)、タッピング・GF(外-1-12)らの協力を得て、キリスト教の伝道・救済事業・無料巡回診療に尽くす。 '17帰国し、友愛会に参加。'19個人的慈善的事業ではなく労働者の組織的社会運動によるために、鈴木文治らと友愛会関西労働同盟会を結成、理事長となる。 「救貧から防貧へ」の移行である。消費者と生産者の互助をはかる消費組合共益社を設立、会長に衆院議員の今井嘉幸を就任させる。 これがわが国の生協の始まりとなる。同年、牧師の資格を得る。'20自伝小説の『死線を越えて』が1年間で100万部、通算400万部の大ベストセラーとなる(大正時代に最も売れた本)。 この本で得た印税は、困窮した労働者らとその家族のためにまわしたという。
 賀川はキリスト者として貧民救済と貧民の霊的救済を目的に「貧民窟」に移住し救霊団の事業を展開してきたが、救済事業だけでは貧民は救われないとして、「貧民窟」の現実を衆知し、「貧民」のいない社会をつくることだと考えるようになった。 労働者が労働の報酬を正当に受けるような社会にするための変革をするには、労働者の団結による労働組合運動が必要だと痛感し、労働争議に関わるようになる。 労働者賛美とともに、女性賛美も強く、当時展開されていた母性保護論争にも関心を示し、交流のあった平塚らいてうに近い見解を公にしている。 この背景には、'19夏に名古屋新聞と中京婦人会が主催した婦人夏季講習会に講師として参加したことがきっかけで平塚らいてうと知り合い、新婦人協会のアドバイザー的存在として支えたからである。
 '21.7.10神戸にて川崎、三菱両造船所の労働者3万5千人を指導して、日本初の街頭デモが賀川の指導で行われた。 賀川の労働運動に関する考えは、主義や思想よりも経済問題の範囲内で発達させようとするものであった。 しかし、今回のデモでは、反権力闘争の性格をもち、激しい権力弾圧を受けることとなった。 7月14日県知事の要請で軍隊が出動、29日には警察隊と衝突によって死者が出て、争議団は賀川を含む175人のデモ参加者が逮捕された。 その後、争議団は会社側の激しい切り崩しに耐え切れず、8月12日に「惨敗宣言」を発表した。 これにより、解雇された活動家は約1300名であった。しかし、この争議が日本の労働運動に与えた影響は大きく、これによって初めて労働者団結の威力を示し、労働者の階級意識を急速に高めることとなった。 一方、敗北を機に、労働運動内部にサンディカリズム、無政府主義、マルクス主義の思想が急激に広まり、ギルド・ソシアリズムの賀川は労働運動から手を引いていった。 敗北から二ヶ月後の10月、杉山元治郎(同墓)らと日本農民組合の結成を画し、翌年、組合の創立大会を開催した。 立体農業を提唱、各地に農民福音学校も作るが、組合の組織が拡大していくと、労働組合運動と同様、急進的なグループが浸透、賀川は農民運動からも徐々に撤退していった。
 労働組合の失敗は消費組合を作らなかったからと考え、既に'19設立していた購買組合の充実発展に力点が置かれた。 '21労働者のために神戸購買組合を結成、これはその後一般市民を加え、協同組合として発展(現・コープこうべ、旧・灘神戸生協)。 関東大震災の時、急きょ東京に駆けつけ、現在のボランティアの先駆けともいうべき目覚しい救援活動を行うが、それを機に本所セツルメント事業を設立、各種の社会事業を全国に起こしていった。 この間、'24政治研究会執行委員をへて、'26労働農民党中央執行委員となったが、同年末の右派脱退とともに辞す。以後は主にキリスト教の布教活動・精神運動に専念従事した。
 '26〜'34(T15-S9)「神の国運動」を全国に展開。この間、'28(S3)中ノ郷質庫信用組合を設立。 '32新渡戸稲造(7-1-5-11)らと共に東京医療利用購買組合を設立。'35ニューヨークで『友愛の経済学』の講演を行う。 '38財団法人雲柱社を設立。'40反戦容疑のため渋谷憲兵隊に検挙され留置される。
 '41.4日本の中国に対する侵略が泥沼化していた時期、日本のキリスト教界代表として、阿部義宗 斉藤惣一 河井道らと共に、アメリカの教会に平和使節団として訪米。 その際、首相の近衛文磨から内命を受け、使節団が帰国した後もアメリカに残り、ルーズベルト大統領との和平の交渉にあたった。 しかし、日本軍が新たに佛印に進攻するなどがあり交渉は進まず、8月1日にサンフランシスコを出航する最後の交換船龍田丸に乗船、帰国の途につく。 その時に詠んだのが「悲しみを忘れて 渡る太平洋 平和のつなぎ 胸にひそめて」である。 同年12月賀川が松澤教会で1日から一週間、平和のために祈梼会を開き、徹夜の祈梼会が終わった12月8日に日本軍は真珠湾攻撃をし太平洋戦争が勃発した。 戦争突入後は、天皇に対する強い親近感を抱き、米英を非難、日本の戦争行為を正当化する文章を公にし、反米放送を行うなど戦争協力へと傾斜していく。
 敗戦後、'45東久邇宮内閣の参与となり、「一億総懺悔」を提唱。また社会党の結成に協力。 世界連邦建設同盟(世界連邦運動協会)および国際平和協会を設立。日本生活協同組合同盟が結成し、初代会長に就任した。 '46勅撰貴族院議員となるが、連合軍司令部(GHQ)の承認が得られず留保。キリスト新聞社を設立。 '49「新日本建設キリスト運動」を起こして全国各地で大衆伝道集会を行う。国際的舞台でも講演活動を展開し、ヨーロッパやアメリカなどでも伝道活動を行った。 また、イエスの友会、キリスト新聞社、世界連邦運動などを起こす。
 主な著書に詩集『涙の二等分』、小説『一粒の麦』などがある。日本の救い、世界の平和という祈りを絶語に逝去。享年71歳。
 1913.5.27(T2)神戸スラム救済事業に奉仕活動で参加していた芝ハル(春子)と結婚。ハルも社会事業家として活躍した。 長男の賀川純基(同墓)は教会音楽家としての作曲活動により多くの作品が残っている。純基の妻の道子は玉井太郎の娘。 '44徳憲義牧師の媒酌人のもとで結婚している。純基・道子の子は賀川督明。

<コンサイス日本人名事典>
<人物20世紀>
<新婦人協会の人びと>
<日本キリスト教総覧など>


松澤教会会員墓地

*賀川豊彦の墓所は松澤教会会員墓地となっている。レンガ作りの後ろ壁には、左側に「彼等は信仰によりて今なお誇る 松澤教会」とあり、右側には「主にある友と賀川豊彦ここにねむる」と刻む。 墓所左側に墓誌があり、2010年現在までに116名が刻む。賀川豊彦一家はもちろん、弟の賀川益慶夫妻も眠る。他に賀川豊彦と親交深い著名な人物も多く眠る。 同墓に眠る主な人物は、賀川豊彦と活動をした農民運動家・政治家の杉山元治郎、支那の農村経済運動家の刈屋久太郎、キリスト新聞の立ち上げに尽力した小川清澄、賀川を世に出した男で社会運動の開拓者である村島帰之、小説家の鑓田研一、賀川の使徒・オリジン電気創業者の後藤安太郎、洋画家の佐竹徳、賀川の弟子で『百三人の賀川伝』の著者の牧野仲造、フレンド教会日本語牧師の高田松太郎、在日大韓基督教大阪教会牧師の姜喜錫、主恩教会牧師の川上太郎吉、救世軍人の難波義雄らも眠る。


賀川豊彦分骨(賀川益慶4-1-52)

*賀川豊彦の弟である賀川益慶の墓所は4区1種52側に「賀川家」としてあり、賀川豊彦も分骨という形で眠っている。 墓所内には墓誌があり、賀川豊彦の名や益慶の長兄を分骨したとの刻みがある。なお、賀川益慶や妻の近の両名とも、松澤教会会員墓地の墓誌にも名が刻む。

*1982(S57)賀川豊彦の事業活動および著作に関する膨大な資料文献を収集、整理保存し一般公開、調査研究に資することを目的とし、財団法人雲柱社の運営のもと、東京都世田谷区上北沢に「賀川豊彦記念松沢資料館」が設立された。 2009(H21)神戸のスラムに身を投じてから100年を迎えたことを記念し、「賀川豊彦献身100年記念事業」が執り行われた。


【ノーベル賞候補であった賀川豊彦】
 2009.9(H21)スウェーデンのノーベル財団がホームページ上で文学賞は1950年まで、平和賞は1956年分までの英語版の候補者リストを公開し、賀川豊彦が'47と'48の2年連続でノーベル文学賞候補、'54〜'56の3年連続でノーベル平和賞候補になっていたことが判明した。
 ノーベル賞の選考は文学賞がスウェーデン・アカデミー、平和賞はノルウェーのノーベル委員会が行い、40名前後の選考委員が選出している。 ノーベル賞の選考過程や候補者名は非公開で、50年以上たって公開されることになっており、今回はそれにより判明された。 日本人のノーベル文学賞受賞者は川端康成(68年)、大江健三郎さん(94年)の2人がいるが、他の候補者が公式に明らかになったのは初めてであり、各誌で取り上げられ注目された。
 賀川はインドのガンジーと並ぶ「東洋の聖者」として、欧米で最も知名度の高い日本人であり、『一粒の麦』や『死線を越えて』などの小説はスウェーデン語に翻訳され、北欧で賀川ブームが巻き起こったこともあった。 なお、'47ノーベル文学賞受賞者はフランス人作家のアンドレ・ジッド。'48は米国出身の詩人のT・S・エリオット。 キリスト教精神に基づく社会運動家としても世界的に著名で、ノベール賞候補に注目された要因である。 日本初のノーベル平和賞は佐藤栄作(74年)である。なお、日本初のノーベル賞は'49湯川秀樹の物理学賞である。 多磨霊園に眠るノーベル賞受賞者は朝永振一郎(22-1-38-5)がいる。  


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