東京出身。朝永家の本籍は長崎県。父は哲学者の朝永三十郎。1913(T2)父が京都帝国大学分科大学哲学科教授就任に伴い一家で京都に転居し、幼少期は京都で過ごした。京都一中、第三高等学校を経て、京都帝国大学理学部物理学科を卒業。湯川秀樹(旧姓小川)とは中学から大学まで同期生(湯川秀樹の飛び級によって)である。
'31(S6)仁科芳雄(同墓)の誘いを受け、理化学研究所仁科研究室の研究員に着任。ここでマグネトロンの発振機構の研究等を行う。'37ドイツのライプツィヒに留学し、ヴェルナー・ハイゼンベルクの研究グループで、原子核物理学や場の量子論を学んだ。第二次世界大戦勃発のため2年足らずで帰国。'41東京文理科大学教授に就任。
'42超多時間理論を発表。'47量子電磁力学の発散の困難を解消するための「くりこみ理論」を形成し、繰り込みの手法を用いて、水素原子のエネルギー準位に見られるいわゆるラムシフトの理論的計算を行い、実測値と一致する結果を得た。アメリカで同じ理論を考えていたジュリアン・シュウィンガーと共に、'48朝永=シュウィンガー理論を発表。同年、磁電管の発振機構(マグネトロン)と立体回路の理論的研究を行い小谷正雄と共に日本学士院賞を受賞。'49東京文理科大学が新制され東京教育大学(筑波大学)になった際も引き続き教授。プリンストン高等研究所に滞在し、量子多体系の研究を行う。'52.11.3文化勲章受賞。'56〜'61東京教育大学長。'63〜'69日本学術会議会長。
'65.12.10「くりこみ理論」の業績により、ジュリアン・シュウィンガー、リチャード・ファインマンと共同でノーベル物理学賞を受賞する。しかし肋骨を折っており、12月のストックホルムでの授賞式には出席できなかったため、スウェーデン大使館で授与された。
晩年は仁科記念財団理事長。物理学によって原子爆弾が作られたくさんの命を奪ったことに心を痛め、原水爆の禁止や原子力の平和利用、原爆の製造・実験・使用に反対する平和運動にも力を入れ、自然科学の啓蒙にも取り組んだ。
「公害や原爆をもたらす科学は、悪いものだという人もいますし、一方で科学は私たちの生活を便利に豊かにしてくれるとても素晴らしいものだという人もいます。しかし、科学には、人間を不幸にも、幸福にもしない第3の見方があると思うのです。それは風景や顕微鏡から垣間見る小さな生き物の不思議な行動、子供のころ心惹かれたあの瞬間の驚きを追求すること、これは誰を不幸にするものでも、また幸福にするものでもありません。心惹かれる不思議を少しずつ掘り下げていく、そういうところに科学の大切な意味のひとつがあります。不思議だと思う事、これが科学の芽です」。
'78咽頭癌の手術を行い声帯を失う。翌年逝去。享年73歳。
<コンサイス日本人名事典> <ノーベル賞10人の日本人など>
【くりこみ理論】
当時の量子力学は大きな矛盾を抱えていた。量子力学はこれ以上分割できないほどミクロな粒子を扱う理論である。このミクロな粒子の一種に電子がある。物理学の実験で電子の質量は測定することができる。ところが、量子力学の理論でこの電子の質量を計算すると、なぜか無限大という結果がしばしば導き出されていた。実質値とは異なっており、これは大きな矛盾になる。当時の量子力学を研究する多くの研究者がこの問題を解決できていなかった。
戦後すぐに焼け出された大学の一角で、朝永を中心として若い研究者が集まり「朝永ゼミ」が開かれた。このゼミで量子力学の討論を続けるうちに、朝永はあることに気づいた。「そうだ、無限の一部は電子の質量にくりこめる。無限の残りの部分は、電荷にくりこめるのだ。こうすれば計算値は有限になる!」。これが『くりこみ理論』の完成であった。
朝永は既に理論を完成していた「ミクロな粒子は各々が異なる時間を持っている」という理論を応用して『くりこみ理論』を作り上げた。この発見によって量子力学の矛盾は解消され、相対性理論と関連付けることも可能になった。朝永が『くりこみ理論』を完成させたのと同じ頃、アメリカでも独自に同じような理論を考えていた研究者のリチャード・ファインマンとジュリアン・シュウィンガーがおり、1965朝永はこの2人と共にノーベル物理学賞を共同受賞された。
単独で存在する電子の電荷や質量(X) + 量子補正(+∞) = 観測された電荷や質量(有限値)
↑★くりこむ★↑
(X)=観測された電荷や質量−∞
*墓石正面「仁科芳雄墓」。仁科芳雄の墓石右側に自然石に正面「朝永振一郎 師とともぬ眠る / 武見太郎 謹書」、裏面「文化勲章 昭和二十七年十一月三日 / ノーベル物理学賞 昭和四十年十二月十日 / 昭和五十四年七月八日歿 享年七十三才」と刻む。墓石左側にも自然石の墓誌があり、仁科芳雄の名と没年月日が刻む。また、「ハリー・シー・ケリー 1976.2.2 米国ノースカロライナ州ラーレーにて歿」と刻まれている。 この墓誌の記は近代磁性物理の父と言われている茅誠司である。
【ハリー・シー・ケリーと朝永振一郎が仁科芳雄と共に眠る理由】
多磨霊園は都営であるため規制が厳しく、宗教関係で例外的に血縁以外の者たちと眠る墓所はあるが、基本的に一般墓地は6頭身の血縁までと定めている。よって仁科芳雄の墓所は血縁外の人物と眠る例外的な墓所である。
ハリー・シー・ケリーはマッカーサーの科学顧問として戦後すぐに来日し、GHQ経済科学局科学技術部長などを務めた人物である。戦後の日本の科学界が最もつらかった時期に、苦楽を共にし、'50.4仁科芳雄を助け、米国からラジオ・アイソトープの輸入を実現した。'76.2.2ハリー・シー・ケリーが逝去し、仁科の隣りにケリーを眠らせてあげたいという話が両家から出て、没後五ヶ月して、多磨霊園に分骨埋葬された。
仁科芳雄を師として仰ぎノーベル物理学賞に輝いた朝永振一郎も同墓に分骨されている。朝永振一郎が亡くなったのは'79であるため、ハリー・シー・ケリーの没後である。察するにハリー・シー・ケリーが仁科芳雄の墓所に分骨される納骨式に参列したと予測する。二人と同様に苦楽を共にした同志として同じ気持ちを抱き、生前に仁科家に遺言を託したと推測される。朝永振一郎の正墓は京都の東本願寺にあり、墓石に両親の名と並び刻む。仁科芳雄の墓には「師とともぬ眠る」と刻む。
第60回 後編 ノーベル賞 くりこみ理論 朝永振一郎 お墓ツアー
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