ペルシルベニア州ウィルクスバーリで誕生。リーハイ大学卒、1936物理学博士(マサチューセッツ工科大学)。母校、民間会社の研究員を経て、'37〜41年モンタナ州立大学助教授、准教授。
第二次大戦中はマサチューセッツ工科大学放射線研究所勤務。'46GHQに入り、経済科学局科学技術部基礎研究主任から科学技術部次長、次いで部長となり、マッカーサーの科学顧問を務めた。
日本の旧体制を刷新、日本学術会議の創設に尽力するなど科学技術の復興に努める。'50年4月には仁科芳雄を助け、米国からラジオ・アイソトープの輸入を実現した。
同年帰国、'51〜62全米科学財団副理事長、ついでノースカロライナ州立大学副学長を歴任。'61日米科学委員会第1回会議共同議長を務めた。心臓発作で死去。
<科学は国境を越えて> <「GHQ顧問ケリー」(『読売新聞』1999.5.24朝刊11頁)> <MATSU様より情報提供>
*墓石正面「仁科芳雄墓」。墓石右側に自然石に正面「朝永振一郎 師とともぬ眠る / 武見太郎 謹書」と刻む墓石が建つ。左側に自然石の墓誌があり、仁科芳雄の刻みと共に「ハリー・シー・ケリー 1976.2.2 米国ノースカロライナ州ラーレーにて歿」と刻まれている。 この墓誌の記は近代磁性物理の父と言われている茅誠司である。
【ハリー・シー・ケリーと朝永振一郎が仁科芳雄と共に眠る理由】
多磨霊園は都営であるため規制が厳しく、宗教関係で例外的に血縁以外の者たちと眠る墓所はあるが、基本的に一般墓地は6頭身の血縁までと定めている。よって仁科芳雄の墓所は血縁外の人物と眠る例外的な墓所である。
ハリー・シー・ケリーはマッカーサーの科学顧問として戦後すぐに来日し、GHQ経済科学局科学技術部長などを務めた人物である。戦後の日本の科学界が最もつらかった時期に、苦楽を共にし、'50.4仁科芳雄を助け、米国からラジオ・アイソトープの輸入を実現した。'76.2.2ハリー・シー・ケリーが逝去し、仁科の隣りにケリーを眠らせてあげたいという話が両家から出て、没後五ヶ月して、多磨霊園に分骨埋葬された。
仁科芳雄を師として仰ぎノーベル物理学賞に輝いた朝永振一郎も同墓に分骨されている。朝永振一郎が亡くなったのは'79であるため、ハリー・シー・ケリーの没後である。察するにハリー・シー・ケリーが仁科芳雄の墓所に分骨される納骨式に参列したと予測する。二人と同様に苦楽を共にした同志として同じ気持ちを抱き、生前に仁科家に遺言を託したと推測される。朝永振一郎の正墓は京都の東本願寺にあり、墓石に両親の名と並び刻む。仁科芳雄の墓には「師とともぬ眠る」と刻む。
第59回 前編 日本人原爆開発者「ニ号研究」 仁科芳雄 米国物理学者 ハリー・C・ケリー お墓ツアー
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