奈良県出身。自由党衆議院議員の滝口帰一の三男として生まれる。旧姓は滝口。早稲田大学政治経済学部在学中に母方の姓を継ぎ村島姓となった。正式には村嶋歸之(墓誌には村島帰之と刻む)。
1915(T4)早稲田大学卒業後、大阪毎日新聞に入社。経済部を経て、内国通信部で地方版編集をしていた25歳のころ賀川豊彦(同墓)と知り合った。
『ドン底生活』を新聞に連載し、翌年出版し好評を得て出世作となる。鈴木文治らが発足させた労働者団体である友愛会の関西同盟を発足させ、賀川を理事長に、自身は理事として労働運動に深く関わる。
'18神戸支局に転勤。'21.7.10神戸にて川崎、三菱両造船所の労働者3万5千人を指導して、日本初の街頭デモが賀川の指導で行われた際にこの労働争議へ参与。
川崎造船所のサボタージュ闘争を指導した。これは日本初のサボタージュで労働者1万6000人が参加して決行している。サボタージュは労働者の争議戦術の一つで生産妨害行為や破壊工作をいう。
「サボを『同盟怠業』と訳し、夕刊に報ず。まさに特ダネ」と村島は備忘録に残したが、それ以来、怠けることを「サボる」というようになり、この「誤訳」を後々まで気に病んでいたという。
'20月刊誌「改造」の依頼で賀川に寄稿の橋渡しをした。当初の単行本化を売れないだろうからという村島の判断で連載とする。
1月〜5月に前半を連載、その後の後半の連載を加えて、10月に出版。これが年間100万部、トータル400万部の大正時代に最も売れた大ベストセラーとなる。
これが、賀川の代名詞となる自伝小説『死線を越えて』である。村島の力なくしてなし得なかったため、後に村島は「賀川豊彦を世に出した男」といわれる。
大阪本社に戻ってからは社会部、調査部、学芸部などに勤務。'23しづゑ(1901〜1963.4.12 同墓)と結婚。仲人を賀川夫妻に頼み神戸教会で挙式した。
関東大震災の報を聞き、新婚旅行に代えて上京し、本所バラックで賀川の難民救済事業を手伝った。
労働問題以外にも売春や風俗を取り上げるルポを多く描いていた。'25『歓楽の墓』を執筆し、自身の買春を懺悔して、賀川豊彦により洗礼を受けた。
'28(S3)谷崎潤一郎が妻の千代を、和田六郎(大坪砂男)に譲る話が出て、それを元に『蓼食ふ蟲』を連載していた時の担当記者をつとめる。
以後、廃娼運動家、社会主義者として論陣を張り、労働者劇団や女給同盟の結成など独特な活動を展開した。'36病気のため退社。東京の社団法人・白十字会総幹事に就任した。
'46賀川と共にキリスト教主義の私立平和女学校を開設して校長に就任し、その後、学校法人平和学園を創設、賀川が理事長、村島が専務理事と学園長と校長を兼務した。
主な著書に『生活不安』、『カフェー考現学』、『サボタージュ : 川崎造船所怠業の眞相』、『賀川豊彦病中闘史』、『大正・昭和の風俗批評と社会探訪 村嶋歸之著作選集(全5卷)』など。
享年73歳。長男は社会評論家の村嶋健一(筆名:矢野八朗 1925-1990 墓誌に刻みなし)。