早稲田大学工手学校卒業。技術者として、鉄道省、逓信省、日本信号株式会社の工場長を務める。
この間、1923(T12)賀川豊彦(同墓)の関東大震災での救済事業に参加したのをきっかけに感化を受ける。賀川の東京全市近隣等での路傍伝道に随行する。
その時に、「地方から出て来て働きつつ勉学しようとする青年のために生涯をかけて奉仕をする」という使命感を得たという。
1938(S13)米国で研修したソルトバス電気炉の国産事業化を掲げ、富士電炉工業を創立。
15年前に掲げた使命を達成するために、会社を母校の早稲田大学の近くに構え、同校の夜学生を従業員として受け入れ育てた。後藤のモットーは「人間づくりが究極的には金儲けに通ずる」である。
会社は亜酸化銅整流器と流気式電機炉の製作で、セレン整流素子の製造にも着手し、逓信省へ納入するまでに発展した。創業時の資本金30万円が、10年間で10回の増資を繰り返し、2億6千4百万にまでに成長した。
戦後は、セレン、ゲルマニウム、シリコンへの時代の流れを察し、整流素子の開発、配電盤の製造事業へと移行。
'47電電公社(NTT)認定メーカーとなり、電話網整備計画とともに事業を拡大。'50合成樹脂塗料にも着手。'52社名をオリジン電気株式会社と変更。
'55溶接機、'61ベアリング製造と、電源機器や半導体の開発で培われた多様な要素技術をベースに新規事業を発足させた。
現在はエレクトロニクス事業としてNTTドコモ向け電源機器や半導体デバイス、メカトロニクス事業として精密機構部品や電気溶接機、システム機器、ケミトロニクス事業として自動車・パソコン・携帯電話端末機など向けの合成樹脂塗料を三本柱として手掛ける。
後藤は賀川の使途をもって任じ、「新しい工場経営は、人間に対する再認識から出発する」という信念を持った会社経営を貫いた。
後藤はどんなに会社が多忙であっても、夜学に通う従業員の勉学を奨励して学校を優先させ、また早稲田大学夜学生は無条件で社員として入社させて、かつ宿舎の面倒も見た。
ただし、入社面接で必ず後藤がする質問が二つある。
㈰入社したらどんな嫌な仕事でも、例えば便所掃除でも、それを喜んでやってのける覚悟はありますか?
㈪絶えず勉強し、向上して行く情熱がありますか?
この二つの約束を守る意志がある者が採用された。嫌なことでも、それに取組む姿勢が大事であり、情熱を持ってやって行けば、個人も成長し、企業も成長し、ひいては世の中に役に立つ。
このことが金儲けに通ずる道だとという信念を持っていた。
'63(S38)イエスの友会会長に就任。'65第4代日本電気技術者協会会長を二年間務めた。著書に、自伝『ひとすじの道』('72)、追憶集『奉仕のこころ』がある。享年74歳。