徳島県出身。旧姓は浜田。ゆたか(僴)の字を「かん」とも読めることから「かん」を通称にもした。愛知県立医専を卒業。卒業後、郷里の祖父である若林医学博士の下でレントゲンの医学研究を行う。
賀川豊彦(3-1-24-15)の神戸スラム(新川や番町の部落)での貧民救済運動に共鳴して、貧困層に無料で診察を施す友愛診療所(救霊団、後のイエス団)を設立し医療救済にあたる。この志は人間として一切平等であるべきはずが、習慣の為に、社会の繋縛から脱し得ずに苦しんでいる人たちを救いたいという一心からであり、家族共々現地に引越しをして家族全員で部落に投じた。
1920(T9)欧米に留学し、シカゴ大学・ベルリン大学で産児調節をまなぶ。帰国後、関東大震災直後の本所で救済運動を行う。'28(S3)東京に労働者診療所を開設し、翌年には東京市議となる。'32.1.21衆議院解散に伴う総選挙に社会民衆党から立候補。その選挙運動の最中、馬島派が浅沼稲次郎(18-1-3-12)候補を中傷したビラを配布したという理由で、馬島の事務所を浅沼派の労働大衆党の運動員40人が襲い、馬島派運動員20人がこれに応戦して負傷者を出す事件が起きた。この選挙結果は浜口雄幸内閣の民政党(146議席)が敗北し、政友会(303議席)が圧勝するという番狂わせ。馬島の社会民衆党は3議席、浅沼の労働大衆党は2議席、その他は12議席という結果であった。なお、東京4区から立候補した馬島や浅沼は共に落選。東京4区で当選した4名の中には朝鮮人の朴春琴(中立・新人)がいる。
戦前戦後と産児調節運動(産調運動)を推進しリーダーとして活動。1920年代に馬島が日本に初めて避妊法であるペッサリー、避妊ピン(子宮内異物装置法)、ヨーチン法などを紹介し、日本人用の馬島ペッサリーを考案した。活動が認められ、戦後、'50(S25)吉田茂首相の依頼で日本人口爆発の対策を指導。'52インドで開かれた国際産調会議にペッサリーを持ち込み、インドの貧困層への普及を訴えた。'55・'59・'64中国の周恩来首相の依頼で2020年に予測される中国の人口爆発の対策の指導をした。
日中・日ソ国交回復に尽力し同会議理事長、新日本医師協会長、全生連会長、日ソ協会理事長および副会長、日中友好協会理事長、日本家族計画協会副会長、東京都家族計画協会理事長、日本産調連盟委員長、東京都政新報社長、江東消費生協理事長などを歴任した。享年76歳。