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Topping,Henry

タッピング,ヘンリー

Topping,Henry

1853.7.25(安政1)〜 1942.8.30(昭和17)

明治・大正・昭和期のバプテスト教会宣教師

埋葬場所: 外国人墓地区 1種 12側
(グレシットと同墓)

 1870年カナダに渡りオタワ高等学校を卒業後アメリカに帰り、シカゴ大学およびロチェスター大学で学んだ。1888(M21)妻G.F(同墓)と結婚。1890ロチェスター大学よりM.A.の学位を取得した。さらにシカゴ大学神学部に進み神学を専攻したのち、B.D.を贈られた。 1892年5月まで南カロライナ州コロンビア市ペネディクト・カレッジでギリシア語およびラテン語を教えた。1895アメリカ・バプテスト派教会の宣教師として来日し東京学院の英語教師となった(同校はのちに関東学院へと発展)。 1907〜1920(M40〜T9)まで岩手県盛岡市盛岡バプテスト教会に赴任し、キリスト教の伝道に従事するかたわら盛岡中学で英語を教えた。詩人の宮沢賢治に聖書を教えた。後に宮沢賢治はタッピング一家を詩にうたった。 その詩は現在、岩手公園内の賢治の詩碑に刻まれている。一年間の休暇後、'22に横浜に赴任し、伝道活動に従事。27(S2)宣教師を引退し、晩年は家族と共に賀川豊彦(3-1-24-15)の活動を支援し、日本で没した。

<来日西洋人名事典>
<日本キリスト教歴史大事典>
<MATHU様より情報提供>


*生まれが1957年という記述が多かったが、墓誌に刻まれているのを採用した。


【宮澤賢治「岩手公園」碑】
岩手公園
「かなた」と老いしタピングは
杖をはるかにゆびさせど
東はるかに散乱の
さびしき銀は聲もなし

なみなす丘はぼうぼうと
青きりんごの色に暮れ
大學生のタピングは
口笛軽く 吹きにけり

老いたるミセスタッピング
「去年(こぞ)なが姉はこゝにして
中學生の一組に
花のことばを教へしか」

孤光燈(アークライト)にめくるめき
羽虫の群のあつまりつ
川と銀行木のみどり
まちはしづかにたそがるゝ

賢治


*碑の説明文には以下のことが刻まれている。
宮沢賢治(1896〜1933年)は、岩手県花巻の地に生まれた。その生涯は、熱烈な法華経信仰に生き、詩人・童話作家・科学者・農民指導者として、21世紀を予見し秀れた作品を今日へと託し、37歳の若さで世を去った。
 文語詩「岩手公園」は、死期迫る1ヶ月前の、昭和8年(1933年)8月22日に病床で清書し終わった、「文語詩稿一百篇」中の一詩である。
 作中の「タッピング」は、明治41年(1908年)から大正9年(1920年)まで、盛岡バプティスト教会牧師だった、米国人ヘンリー・タッピングがモデルである。「ミセス・タッピング」は。夫人のG・F・タッピングで、教会附属の盛岡幼稚園を創立した。「大学生のタッピング」は息子のウィラード・タッピングで、「なが姉」はヘレン・タッピングである。
 賢治は、盛岡高等農林学校の1年の時、級友を誘ってタッピング師の聖書講座を聴講している。散策中に出会った賢治の印象深い感懐が、美しい街の風景と重なり、詩晶高い文語詩となった。
 この碑は、「賢治の詩碑を岩手公園に建てる会」によって、昭和45年(1970年)10月21日に除幕された。


Topping,Genevieve Faville

*なお、タッピング夫妻の墓地はアメリカ・バプテスト派教会の墓所である。墓石の左側にグレシットの像と碑がある。墓石の手前に墓誌が建ち墓誌にはタッピング一家の刻みしかない。賢治の碑にも登場した息子のウィラードと娘のヘレン、ウィラードの妻エバリンも同墓に眠る。


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