アメリカ人。メリーランド州ボルチモア出身。
ジョンズ・ポプキンス大学を卒業して、マウント・ホリオーク大学に入り、教育学を修めた。
1907(M40)バプテスト派教会宣教師として来日。日本バプテスト神学校教授、次いで東京学院長(1912-18)に就任。
中学関東学院(関東学院)が設立されると同時に、同校で英語を教えた。
宣教師であるとともに優れた天文学者でもあり、天体望遠鏡を屋上に据付けて観測するなどして生徒たちに天文知識を与えた。
また、明治学院で自然科学の講義を担当。'25(T14)夫人の病気で帰国した期間の4年間、カリフォルニア州オークランド天文台で働き、ミルス・カレッジの教授をも兼任した。
再び来日し東京学院で神学を教えた。
'17(T6)同校の中学部が閉鎖となったのちも神学部・高等学部は1927年3月まで存続、中学関東学院と東京学院が合併し、1927年4月から中学部、高等学部、神学部を持つ関東学院が誕生しました(関東学院の最初の院長はグレシットではありません)。
日本を愛し、日本を永住の地と定め、太平洋戦争に際しても、外国人引揚げ勧告を退け、世田谷上北沢町で不自由な軟禁生活を送った。
敗戦後、健康を害していたにもかかわらず、日本を正しく理解して処置を誤らぬようにと願い、賀川豊彦(3-1-24-15)らと共にマッカーサーに働きかけた。
米国で治療するため、厚木空港で軍用機に搭乗しようとした際に倒れ、日本で没した。