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まえだ たもん

前田多門

まえだ たもん

1884.5.11(明治17)〜 1962.6.4(昭和37)

昭和期の官僚、県知事、政治家、名誉都民

埋葬場所: 16区 1種 3側 7番

 大阪府出身。版元の前田喜兵衛(同墓)の長男として生まれる。実家は裕福であったが後に没落し、多門が給料の半分を仕送りすることになる。
 東京帝国大学卒業後。群馬県、神奈川県の郡長を務め、岡山県うや長崎県の理事官を務める。内務省に入り、道路課長、文書課長などエリート官僚として外国との折衝を始めとした役職も歴任。内務大臣秘書官に就任し、大浦兼式、一木喜徳郎、後藤新平、水野錬太郎ら大物四代の内相に仕えた。
 '20(S9) 内務大臣官房都市計画課長になる。同.12.17 後藤新平が東京市長に就任した際に、池田宏(2-1-2-5)、永田秀次郎と共に招かれ東京市助役に転出した。この池田・永田・前田の補佐役の名前に3人とも「田」がつくため「畳屋(たたみや)」と呼ばれた。これは、畳の旧字体「疊」は田が3つ重なっていることからである。また、この3人に後藤と電気局長の長尾半平(6-1-5-8)を入れ、世に「三田二平」の新市政と呼ばれた。助役時代は、後藤の東京市政要綱(8億円計画)に奔走。この計画のひとつに公園墓地構想があり多磨霊園が誕生している。
 '23.9.1 関東大震災が発生したため、 国際連盟の外郭団体ILO(国際労働機関)の日本政府代表に任命されて、スイスのジュネーブに赴任。後、大使館参事官としてフランスに赴く。'26 帰国後、東京市制調査会専務理事、緒方竹虎に請われて東京朝日新聞論説委員となった。
 '38(S13)悪化する日米情勢を好転させるべく、日本文化会館館長としてニューヨークへ渡米し、IPR会員、高木八尺と共にロックフェラー財団と接触した。しかし、止めることはできず日米開戦となり、文化会館の閉鎖に奔走し、しばらくニューヨークに留まっていたが帰国。
 '43.7.1 大政翼賛会からの任命で第36代 新潟県知事に就任(任期:1943.7.1-1945.2.1)。退任後、貴族院議員に序せられ、同成会に属し、大政翼賛会役員となった。
 '45.8.17 終戦後すぐに成立した東久邇宮内閣において、厚生大臣と兼務する形で文部大臣になった松村謙三が入閣翌日に文部大臣を免じたため、急きょ文部大臣に抜擢され初入閣。教育改革を推進した。文部大臣時代は娘の美恵子を秘書としGHQとの折衝および文書の翻訳作業などに従事させた。また、幣原喜重郎と共に昭和天皇の人間化宣言に大きく関わったとされる。同.10.9 幣原喜重郎が組閣した内閣でも文部大臣を留任したが、戦時中の新潟県知事や大政翼賛会に関係していたことを問題視され公職追放、大臣を辞職した。その後は、日本育英会会長、日本ILO協会会長、世界平和アピール七人委員会などを歴任。
 この間、'46ソニーの前身である東京通信工業起ち上げにあたり、作家の野村胡堂(13-1-1-3)と共に資本金19万円を出資し、名誉職の初代社長に就任した。このとき、井深大(17-1-8-7)は技術担当の専務、盛田昭夫が営業担当の常務となり事業を始めている。井深大の前妻である勢喜子(同墓)の父が多門であるので、当時は義理の父という関係である。
 1952年に制定され翌年から始まった東京都が功労ある都民を顕彰する「名誉都民」の3回目となる顕彰において、'55 名誉都民に選出された(7人目)、なお画家の川合玉堂(2-1-13-8)もこの時に共に顕彰されている。なお余談であるが、その38年後の '93 井深大も名誉都民になっている。享年78歳。

<コンサイス日本人名事典>
<日本歴代知事事典>
<大衆人事録 東京篇 など>


墓所 墓所

*墓所に3基。正面「前田多門 / 前田房子 墓」、裏面は多門と房子の略歴が刻む。墓所左側に「前田家墓」、左面に「前田一夫 昭和三十二年四月二日 穂髙ニテ没ス 行年ニ十歳」と刻む。裏面は墓誌となっており冒頭に「先祖累代の遺骨を大阪市天王子区金台寺墓地より移葬 昭和四十九年六月四日」刻むが、墓誌に刻む名前は前田陽一、ゆう、勢喜子のみである。刻みはないが多門の父の前田喜兵衛など先祖代々も同墓に眠ると思われる。墓所右側に「新藤家」、左面に「平成二十九年十一月吉日 新藤悦子 建之」、裏面は墓誌となっており新藤恒男が刻む。


【前田多門一家】
 前田多門の父の前田喜兵衛は、明治時代に大阪の塩町通4丁目4番地において版元を営業し、後藤芳景、鈴木年基、山崎年信の錦絵を出版した人物。才能を元手に大商いを繰り返していたが、その後事業に失敗し没落。多門の結婚当時には多門が給料の半分を仕送りしなければならないほどになっていた。
 多門の妻の房子は群馬県富岡の生糸商の金澤知満太郎の第三女として生まれた。金澤家は蔵が七つもあるほどの金持ちであったが、自由民権運動に参加した父が警察に追われ、さらに借金をしていた人物によって家屋に放火されて一家は無一文となってしまった。
 多門と房子の結婚の仲立ちしたのは、房子が給費生として通ったクエーカーの運営する普連土学園の顧問であった新渡戸稲造(7-1-5-11)であり、二人の結婚式の媒酌人もつとめている。房子は早くからクエーカーの教えを信じ、また多門も房子の没後、同様にクエーカーとして生活をした。多門もクエーカー・コネクションの中心人物である。房子の姉弟に無教会主義のキリスト教の独立伝道者の金澤常雄がいる。
 多門と房子の間には2男3女を儲ける。長男は前田陽一(M44生)、長女は美恵子(T3生)、二女は勢喜子(T5生)、三女は とし子(T10生)、二男は壽雄(T13生)。
 1923 新渡戸稲造が国際連盟事務次長としてジュネーブに滞在中、多門はILO(国際労働機関、国際連盟の外郭組織)の日本代表に就任し、一家で家族でジュネーブに暮らし、新渡戸一家と親しく交際した。陽一や美恵子は両親が尊敬していた新渡戸稲造を祖父のように慕い、大きな影響を受ける。なお、次女の勢喜子の名前は新渡戸稲造の母の名前「せき」から名付けられた。
 スイスから帰国後、陽一と美恵子は成城学園で学ぶ。その後、陽一はフランス文学者となり、また新渡戸稲造との縁も深い国際文化会館の専務理事にも就任した。
 長女の美恵子は精神医学を学びハンセン病救済活動を行う。戦後はGHQとの折衝などで父の補佐として活動。著書『生きがいについて』(1966)があり、上皇后美智子の相談役としても支えた。作家の野村胡堂の長男の野村一彦(共に13-1-1-3)とプラトニックな恋愛関係であったが、一彦は結核で亡くなっている(詳しくは野村胡堂のページへ)。植物学者の神谷宣郎と結婚し、以降は神谷美恵子として活動。長男の神谷律は藻類がもつ鞭毛の構造および運動機構に関する研究をした生物学者。次男の神谷徹は古楽器演奏家として、リコーダーとユニークなストロー笛の演奏で人気を博している。
 次女の勢喜子(同墓)は野村胡堂の勧めでお見合いをしたソニー創業者の井深大(17-1-8-7)と結婚(1936)。この縁より多門は野村胡堂と共にソニーの前身である東京通信工業に出資し、名誉職であるが初代社長を務めた。井深大と勢喜子は不仲で長年別居を続けたが前田多門の死に伴い協議離婚している(詳しくは井深大のページへ)。
 三女の とし子は伊藤忠商事の副社長や東京税関長を務めた片桐良男に嫁いだ。前田陽一の妻は ゆう(優子:同墓)は長野県出身、旧姓は今井。長男の前田一夫(同墓)は20歳の若さで亡くなった。長女は国際政治学者の入江昭に嫁いだ。
 前田家墓所には大蔵官僚・銀行家の新藤恒男が眠る「新藤家」に墓石も建ち、建立者は新藤悦子である。悦子は陽一の娘であろうと推測する。



第372回 官僚 知事 議員 大臣 昭和天皇人間宣言黒幕
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