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まえだ よういち

前田陽一

まえだ よういち

1911.11.3(明治44)〜 87.11.22(昭和62)

昭和期のフランス文学者

埋葬場所: 16区 1種 3側 7番

 群馬県出身。父は政治家の前田多門(同墓)。妹に神谷美恵子、叔父に聖書研究会の金沢常雄。
 1934(S9)東大仏文科卒業。同年フランス政府招聘留学生として渡仏、'45アメリカで終戦を迎えた。帰国後、一高教授を経て、'49東大教養学部助教授、'51〜'72教授。 '72〜'73パリのソルポンヌ大客員教授として招かれ、'80に名誉博士号を授与された。 パスカル研究の世界的権威として知られ、とりわけ「複読法」と呼ばれる厳密な方法論に基づいた手稿解読は、それまでのパスカル研究に新たな進展をもたらす画期的な試みとして、フランス本国にも大きな影響を与えた。 その成果は未完に終わった主著である3巻の『パスカル「パンセ」註解』('80〜'88。第1巻により日本学士院賞受賞)に見ることができる。他にパスカル、モンテーニュなどに関する著書・論文多数。 またユネスコを始め種々の重要な機関の委員を務め、国際文化交流のために幅広い活動を展開した。 フランス政府から教育功労章('54)、レジオン・ドヌール勲章シュバリュ章('66)、アカデミー・フランセーズのフランス語圏大賞('87)を受けた。

<現代日本朝日人物事典>
<五輪塔様より情報提供>


墓所 墓所

*墓所に3基。正面「前田多門 / 前田房子 墓」、裏面は多門と房子の略歴が刻む。墓所左側に「前田家墓」、左面に陽一の長男で20歳の若さで亡くなった前田一夫の刻み、裏面は墓誌となっており、多門の長男でフランス文学者の前田陽一、陽一の妻の ゆう、多門の次女でソニー創業者の井深大(17-1-8-7)の元妻の勢喜子が刻む。刻みはないが多門の父の前田喜兵衛など前田家先祖代々も同墓に眠ると思われる。墓所右側に「新藤家」、左面に「平成二十九年十一月吉日 新藤悦子 建之」、裏面は墓誌となっており新藤恒男が刻む。悦子は前田陽一の娘であろうかと推察する。

*勢喜子は野村胡堂の勧めでお見合いをしたソニー創業者の井深大と、1936結婚したが、長年の別居を経て、父の前田多門没後に離婚した。息子の井深亮(ソニー → エム・アイ・ラボ取締役)が執筆した『父 井深大』に詳しく書かれている。

*東大学生時代の親友に野村胡堂(13-1-1-13)の長男の野村一彦(13-1-1-13)や、一彦の妹の瓊子と結婚した経済学者の松田智雄(13-1-1-13)、妹の美恵子(後のハンセン病患者に生涯を捧げた精神科医の神谷美恵子)らと、室内楽団を作って合奏するなどのグループ交際を行い親交を深めた。 なお、父の前田多門と野村胡堂は仲が良く家族ぐるみの付き合いをしていた。

*パリ大学在学中、外務省の河相達夫の推薦により外交官補となり、ドイツ占領下のパリ大使館で副領事を務めた。しかし、ノルマンディー上陸作戦後、ドイツへ逃れ、'45米軍に拘束され、アメリカで終戦を迎える。 この逃避行には、ドイツ外交官補の大賀小四郎やバイオリニストの諏訪根自子が一緒であった。 帰国後、外交官試験を通っていなくても外交官として遇するという河相の言葉が文書化されていなかったため、フランス文学の道に戻り、一高教授となった。

*今上天皇(平成天皇が皇太子の時)の語学教育係を務めた。妹の神谷美恵子は上皇后美智子の相談係をしていたので、皇族とゆかりある人物である。 また、ノーベル文学賞を受賞した作家の大江健三郎のフランス語の教師であった。


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