東京出身。旧姓野村。父は野村胡堂・ハナの次女として生まれる。1933(S8)日本女子大付属高等女学校卒業。
同年日本女子大英文科に入学するも、病気がちであったため卒業には至らなかった。
女学校中学年の15歳の頃より『お人形の歌』という短編童話を書き始めた。
父の胡堂が瓊子の「七つの蕾」の原話である「つぼみ・つぼみ」を妹や親戚の少女たちが喜んで読むのをみて、どんな作品かを読んでみた所、その筆力に驚き、親交のあった児童文学者で翻訳家の村岡花子に相談し出版にこぎつけた。
'37(S12)『七つの蕾』を刊行(生前唯一の発表作)。新しい少女小説のあり方を示した作品として注目された。初版出版時は瓊子21歳、結婚前だったため、野村瓊子として出版した。
2年後の12月に松田智雄(同墓)と結婚し、その姓にあわせて重版される際、表紙が変更された。絵は、瓊子の4歳下の実妹の野村稔子で、函絵・表紙・2枚の挿絵とも当時十代であった稔子が描いている。
結核を患ったことにより、わずか23歳の若さで病没。享年23歳。没した年度末で『七つの蕾』は20版を数えたという。
没後、夫の松田智雄や父の胡堂により、甲鳥書林から『紫苑の園』(1941)、『小さき碧』(1941)、『サフランの歌』(1942)を遺稿本として出版された。
これらがヒマワリ社の中原淳一の目にとまった。そこで『七つの蕾』は彼の装幀でヒマワリ社から'49出版、中原の抒情画も加味して人気となる。
このヒマワリ社版が'85国書刊行会より復刻された。'97大空社から松田瓊子全集(全6巻)が発売された。
*墓所は正面右側に「野村家墓」、左側に「松田家墓」が並んで建つ。野村家側右に胡堂の碑が建つ。
なお、墓石裏面はそれぞれ墓誌となっており、「野村家墓」には野村胡堂、野村ハナ、長女の野村淳子、長男の野村一彦が刻む。
「松田家墓」には松田瓊子、松田智雄、松田稔子が刻む。なお、瓊子に先立たれた夫の松田智雄は、瓊子の妹の稔子と再婚した。
*前田多門(16-1-3-7)の家族とは家族ぐるみの付き合いであり、瓊子の兄の野村一彦と多門の長男の前田陽一(16-1-3-7)、夫となる松田智雄は親友である。
多門の長女の美恵子(後の神谷美恵子)とは一彦が没した後に親交が多くなった。
これは美恵子と兄の一彦がプラトニックな「忍ぶ恋」でけん制し合っていたが、一彦没後に美恵子の思いを綴っていた日記を見せてもらうようになったことからである。
兄没後、兄の親友であった松田智雄から瓊子は熱烈なアプローチを受け結婚することとなった。
*2017年墓所を再調査したところ、「松田家 墓」墓石が「「松田家 / 住川家 墓」と改墓されていた。墓石の裏面が墓誌となっており、右から松田稔子、松田智雄、松田信雄、住川タカ、住川孝治、住川こうの名が刻む。智雄と稔子の子(胡堂の孫)は松田信雄と住川碧である。なお、智雄の前妻の松田瓊子の刻みが消えている。