長野県軽井沢町出身。1934(S9)東京帝国大学卒業。ドイツ経済史専攻。ドイツ経済史研究者として東京大学教授として活動。
経済学者の大塚久雄らとともに西欧社会の近代化を比較史的に研究。とりわけドイツ社会の生成に関心を持った。大学を停年退官し名誉教授。
退官後は、ドイツとの文化交流にも力を注ぎ、特命全権公使としてケルン文化会館の館長となる。日独シンポジウムを数多く開催した。
また、立教大学の講師も務める。'78図書館短期大学第4代学長に就任し、翌年10月より図書館情報大学初代学長に推挙された。
主な著書に『近代の史的構造論』、『ドイツ資本主義の基礎研究』、『イギリス資本と東洋』、『ルネサンス』、『西洋経済史』などがある。
専門の経済学史以外に、音楽にも造詣が深く、日本ワグナー(ワグネリアン)協会会長も務めた。『音楽と市民革命』も執筆している。
チェロが得意であり、今上陛下(平成天皇が皇太子時代)に軽井沢の智雄の別荘を訪問し、一緒にチェロを演奏したという逸話がある。
その軽井沢では、'18(T7)避暑に訪れていた新渡戸稲造(7-1-5-11)、後藤新平、大隈重信らによって開学された軽井沢夏期大学が戦時中一時中断していたが、'49(S24)智雄の尽力で再開した。
また、軽井沢南原文化協会会長、財団法人南原文化会理事長を務め、画家の田部井石南らと、理想的な学者村の建設を目指し、'65藤石学者村をつくった。その他、ソニーの機械の審判委員なども行っていた。享年84歳。
東大学生時代の親友に野村胡堂の長男の野村一彦、前田多門の長男の前田陽一(16-1-3-7)らがいた。
陽一の妹の美恵子(後の神谷美恵子)や一彦の妹の瓊子らと、室内楽団を作って合奏するなどのグループ交際を行い、瓊子と'39結婚するも、翌年、瓊子は結核にて死去。
後に、瓊子の妹の稔子と再婚した。先妻の瓊子の遺作を監修し『松田瓊子全集』なども刊行している。智雄と稔子の子は松田信雄と住川碧である。
2002(H14)住川碧は野村一彦が残した日記を監修し『会うことは目で愛し合うこと、会わずにいることは魂で愛し合うこと神谷美恵子との日々』を刊行している。