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こいずみ しんぞう

小泉信三

こいずみ しんぞう

1888.5.4(明治21)〜 1966.5.11(昭和41)

昭和期の経済学者、教育家

埋葬場所: 3区 1種 17側 3番

 東京市芝区出身。父は銀行家、慶応義塾長を務めた小泉信吉(のぶきち)・母、千賀(共に同墓)の子。 商法学者・政治家の松本烝治(3-1-17 墓所は隣)は義兄にあたる。6歳の時に父が死去したため、福沢諭吉の邸内に一時住む。
 1910(M43)慶應義塾大学政治学科卒業し、同校教員となる。'12〜'16(T1〜5)慶応義塾の命により英・仏・独に留学。 帰国後、慶応義塾教授となり、経済学史・社会思想史の講義を担当した。 「古典経済学の完成者」リカード研究に力を注ぐとともに、マルクス経済学も深く研究し、保守的リベラリズムの立場からマルクス主義を批判した。 この労働価値説批判はマルクシストの櫛田民蔵(11-1-19)、河合肇、山川均らと論争を引き起こした。 '33(S8)慶応義塾大学塾長(親子二代の塾長)に就任(〜'47)。'39からは藤原工業大学長も兼ねる。'43帝国学士院会員。
 この間、'16信三が28歳の時、親友で作家の水上滝太郎(5-1-16-6)の妹の阿部とみ(同墓)と結婚した。 長男の小泉信吉(しんきち 同墓)は海軍主計大尉として戦地に出征し、'42(S17)24歳で戦死した。 後、信三は『海軍主計大尉小泉信吉』を著している。信三自身も'45.5.25空襲で顔面に大火傷を負うが再起した。
 敗戦は東宮御学問参与を務め、'49(S24)皇太子仁親王(今上天皇)の教育にあたり、「ジョージ5世伝」などを講義し、立憲君主としての心構えを新時代の帝王学として説いたとされる。 また、初の民間から皇室に入った美智子妃との実質的な仲人ともいわれる。'59文化勲章受章。 著作は多数あり、'20『社会問題研究』、'23『価値論と社会主義』、'38『マルクス死後五十年』などがあり、'49『共産主義批判の常識』はベストセラーとなった。 恩師である福沢諭吉の研究もし、伝記『福沢諭吉』がある。心筋梗塞のため死去。享年78歳。 没後、慶応義塾大学は業績を記念して「小泉基金」を設立し、それに基づいて'68から「小泉信三記念講座」が実施されている。
 妻の小泉とみ(富子)の父は阿部泰蔵(1-1-2-11)、画家としても活動。 長女の秋山加代、次女の小泉タエ(妙)は共に随筆家となり、小泉信三との思い出を綴った作品を多く出している。

<コンサイス日本人名事典>
<世界人名大辞典など>


墓所 墓誌

*小泉家の墓域には3基の墓石が建つ。正面「小泉家之墓」、左側に並んで墓誌がある。右側に並んで「林家」が建つ。墓域左手側に十字架をかたどった小さな墓碑があり、上から秋山エリ、秋山正の名と生没年月日が刻む。秋山正は小泉信三の長女の加代子の夫であり、エリは心臓病で満3歳で没した二人の娘である。

*秋山正(1914.1.5-1978.1.19)は栃木県出身で、実業家の秋山孝之輔の子。学生時代は柔道部で鍛え、卒業後は三菱銀行に入行し銀行家として活動。戦後、大阪やロンドンにも赴任している。 '43.2 小泉信三の長女の加代子と婚約。前年('42.10.22)に信三の長男の信吉が南太平洋において戦死(海軍主計大尉)したため、年も変わり、小泉家としては結納の席で親族一同祝福されたが、その矢先に、正は応召され、北満洲(中国東北部)に送られた。 この間、加代子は父の信三が長(この時、慶応義塾長)を務める三田綱町の慶應の亜細亜研究所の総務部や、佐原六郎教授の「民族学資質研究」の中の「慶應の一貫教育」を調べる仕事の手伝いをした。 正は終戦後、ソ連に抑留されたが、'48.4無事に帰還。三田の小泉信三邸で晴れて結婚式を挙げた。'49.4.14長女のエリが誕生したが、心臓病のため、'52.2.18に亡くした。その後、正の弟の急死に伴い、残された二人娘(有子と朋子)を養女とした。これらのことに関しては、秋山加代が執筆した『辛夷の花 父 小泉信三の思い出』に詳しい。

*小泉信吉の娘で信三の妹の千は商法学者の松本烝治(3-1-17-4)に嫁ぐ。松本家の墓は左隣り。

*長男の小泉信吉が戦没したため、'49(S24)小泉(阿部)準藏(2006.11.25没 享年87歳 同墓)が婿養子として娘(次女)の小泉妙と結婚した。 準藏の父は阿部泰二(5-1-16-5)であり、泰二の妹の小泉(阿部)とみ(1991.1.5没 享年95歳 同墓)は小泉信三の妻である。 準藏にとって小泉信三は義父であり叔父となる。なお、泰二ととみ、作家の水上滝太郎(5-1-16-6)は皆兄弟であり、それらの父が阿部泰蔵(1-1-2-11)である。 全ての関連人物が多磨霊園に眠る。準藏の葬儀は小泉信三と同じ聖アンデレ教会にて営まれた。

*小泉信三次女の小泉妙(1925-ご健在)が墓誌に生前刻されている。夫の準藏の死に伴い一緒に刻まれた。 なお、小泉妙は筆名を小泉タエとし、随筆家として多くの著書を出している。 主な著書に、『父小泉信三』(姉で長女の秋山加代と共著)、『父 小泉信三を語る』、『届かなかった手紙』、『父母の暦』、『表参道十年』、『留学生小泉信三の手紙』など。


【小泉信三とスポーツ】
 慶応義塾普通部2年のときに庭球(テニス)部に入り、大学時代は主将として活躍した。 1913(T2)イギリスでの留学中にウィンブルドン選手権を観戦し、大会4連覇中であったアンソニー・ワルディングの著書「庭球術」を日本に送り、大学の後輩たちに硬式テニスを推奨した。 その後、慶応義塾庭球部からは日本初のメダリストの熊谷一弥、デビスカップに出場した山岸二郎、原田武一を輩出している。 帰国し教授時代の'22〜'32(T11〜S7)庭球部部長を務め、慶應義塾體育會(体育会)の発展に尽くした。 フェアプレーの精神(スポーツマンシップ)を生涯堅持し、「練習ハ不可能ヲ可能ニス」の名言がある。
 野球の愛好者でもあり、戦時中、野球に対する弾圧が厳しくなったとき、野球擁護の先頭に立ち、'43戦争にかりだされる学生の門出のはなむけとして、多くの困難を乗り越えて10月16日、学徒出陣壮行“最後の早慶戦”を決行、実現させた。 戦後も、学生野球協会の審査室委員として発展に尽力、またプロ野球にも深い理解を持つ野球ファンでもあった。'76特別表彰という形で野球殿堂入りをした。
 「野球殿堂」をした多磨霊園に眠る人物は、押川清(17-1-45) 1959日本初のプロチーム『日本運動協会』を創設した功績により殿堂入り。 スタルヒン (外人-1-2) 1960年プロ野球初の300勝投手の功績により殿堂入り。 内村祐之(8-1-16-29) 1983アメリカ野球にも精通した第3代コミッショナーとしての功績により殿堂入り。

<The Baseball hall of Fame & Museumなど>


【多磨霊園に眠る歴代慶應義塾長】
※学校法人慶應義塾理事長 兼 慶應義塾大学長
2代目1887-1890小泉信吉3-1-17-3
5代目1922-1923福澤一太郎*9-1-1-1にあったが現在は改葬
7代目1933-1946小泉信三3-1-17-3
11代目1960-1965高村象平1-1-2
12代目1965-1969永澤邦男15-1-15


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