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くしだ たみぞう

櫛田民蔵

くしだ たみぞう

1885.11.16(明治18)〜 1934.11.5(昭和9)

大正・昭和期の経済学者・マルクス経済学開拓

埋葬場所: 11区 1種 19側

 いわき市小川町出身。農家の長男として生まれたが、農家を継ぐという決まりを破って学問の道を選び、磐城中学校(磐城高校)から、東京神田の錦城中学に編入し、牛乳配達をしながら通った。東京外国大学でドイツ語を習い、また1912(M45)27歳の時に京都大学を卒業、経済学者の河上肇の勧めで経済学研究の道に入った。大学院時代にカーネギー平和財団から頼まれ調査した「軍事税及び戦争経済論」が評価を得る。17(T6)外語大の恩師山口小太郎の娘、ふきと結婚。院生後は新聞記者となるが、報道機関の限界を知り退職し、その後就任した同志社大学法学部長も学園紛争を処理して辞任した。そんな中でも新聞や雑誌に経済学の論文を発表し続けていた。20大原社会問題研究所の研究生となり、社会主義文献調査のためにドイツへ派遣。更に仏やソ連にも出向いた。帰国後、マルクス経済学の研究に没頭し、翻訳活動にも取り組んだ。恩師の河上肇はマルクス主義経済学の先覚者であったが、弟子の民蔵は「河上の社会主義は人道主義的」と批判し、世間を驚かせた。しかし、河上肇が官憲に追われた時に自宅にかくまうなど、師を思う心と学問は別と割り切っていた。
 「わが国小作料の特質について」は名論文。34(S9)10月頃、食事も便器も部屋に運ばせ、寸暇を惜しんで執筆にあたり、11月1日机に向ったまま原稿の上にうずくまるように倒れ、5日午後、東京帝都病院で亡くなった。49歳の若さ。翌年、原稿が友人の手によってまとめられ、『櫛田民蔵全集・全5巻』(改造社)が刊行された。友人の大内兵衛(6-1-11-11)はこの全集を「いぶし銀のような地味な文章ではあるが、手にとって味わえば、こぼれるように光輝く」と評した。

<コンサイス日本人名事典など>


※2023年1月、墓石建立場所が更地となっており撤去されたことを確認しました。櫛田ふきが亡くなった翌年、2002.3.18 解放運動無名戦士合葬追悼会(1948より毎年開催されており、この時は55回目)が行われ、櫛田ふき や瀬長亀次郎ら1092人が合葬された(2022年第75回解放運動無名戦士合葬追悼会で新たに1057人が合葬され、2022年時点で合葬者総数は50388人)。徳田球一らも分骨されている青山霊園の「解放運動無名戦士墓」(日本国民救援会が管理)に、櫛田ふきも分骨された。このような経緯もあることから、多磨霊園の櫛田家墓所も墓じまいし、民蔵共に合葬されたか、もしくは他地に改葬されたかは不明です。どなたかご存じの方がいらっしゃいましたらご一報ください。


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