歴史が眠る多磨霊園 |
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櫛田ふき | |
くしだ ふき | |
1899.2.17(明治32)〜 2001.2.5(平成13) | |
昭和期の女性解放運動、平和運動指導者 | |
埋葬場所: 11区 1種 19側 | |
山口県出身。父は外語大教授の山口小太郎。父の弟子であった櫛田民蔵と1917(T6)結婚。しかし、34(S9)民蔵が亡くなり35歳で未亡人となる。仕立物や保険の外交をしながら二人の子供を育てた。作家の宮本百合子に「女手一つで子どもを育てあげたあなただから頼みたい」と励まされたことが、戦後、女性・平和運動に飛び込むきっかけになった。 戦後の46に婦人民主クラブの結成に参加、初代書記長に選ばれた。49同クラブの委員長。55 第一回日本母親大会では日本共産党の小笠原貞子元副委員長らと共に議長団をつとめ、毎年のように日本母親大会に参加した。58から婦団連会長。62新日本婦人の会結成に参加、現在まで代表委員。全国革新懇世話人。原水爆禁止世界大会議長団。白寿を迎えても「戦争と核兵器のない世界に」と、戦いの先頭に立ち、99におこなわれた戦争法案反対の「銀座デモ」(東京)を呼びかけ、自らも参加するなど、日本の女性たちを励まし続けた。 著書に自伝『二〇世紀をまるごと生きて』をはじめ『たくさんの足音―その一つが歩んだ道』『素敵に長生き』『八度めの年おんな』などがある。 日本共産党全国女性後援会の代表委員。国政選挙や地方選挙のたびに日本共産党と党候補者への支持をよせた。百一歳の大往生。 <2001年2月6日(火) 「しんぶん赤旗」> ※2023年1月、墓石建立場所が更地となっており撤去されたことを確認しました。櫛田ふきが亡くなった翌年、2002.3.18 解放運動無名戦士合葬追悼会(1948より毎年開催されており、この時は55回目)が行われ、櫛田ふき や瀬長亀次郎ら1092人が合葬された(2022年第75回解放運動無名戦士合葬追悼会で新たに1057人が合葬され、2022年時点で合葬者総数は50388人)。徳田球一らも分骨されている青山霊園の「解放運動無名戦士墓」(日本国民救援会が管理)に、櫛田ふきも分骨された。このような経緯もあることから、多磨霊園の櫛田家墓所も墓じまいし、民蔵共に合葬されたか、もしくは他地に改葬されたかは不明です。どなたかご存じの方がいらっしゃいましたらご一報ください。 | |
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