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おおうち ひょうえ

大内兵衛

おおうち ひょうえ

1888.8.29(明治21)〜 1980.5.1(昭和55)

大正・昭和期のマルクス経済学者、財政学者

埋葬場所: 6区 1種 11側 11番

 兵庫県淡路島出身。1913(T2)東京帝国大学法科大学経済科を首席で卒業。大蔵省書記官の勤務をするが、'18母校の講師に転身し、'19母校に経済学部が新設され助教授として着任。財政学講座を担当した。
 '20森戸事件に連座。森戸事件とは、東京帝国大学経済学部助教授の森戸辰男が同学部紀要《経済学研究》の創刊号論文《クロポトキンの社会思想の研究》によって新聞紙法の朝憲紊乱罪違反(政府の転覆など、国家の基本的統治組織を不法に破壊すること)に問われた事件。森戸はもちろん、大内も起訴され、禁錮1ヵ月・罰金20円(執行猶予2年)の刑をうけた。憲法学者の上杉慎吉(3-1-3-9)や右翼団体興国同志会らは同論文を危険思想であると喧伝し、経済学部教授会は両人の休職を決議するが、原敬首相兼法相、平沼騏一郎(10-1-1-15)検事総長らの強圧に屈し大学を追われた。
 '21大学を追われた機会にドイツへ留学、'22母校に復職し、'23帰国とともに教授となる。講義テキストとして出版した『財政学大綱』 (1930〜31) は日本で初めてマルクス主義財政学を樹立した労作とされている。当時の学会主流をなしたドイツ社会政策学派に対し、イギリスの古典学派の財政学を徹底させたものとして評価されている。
 雑誌「労農」に結集した山川均、猪俣津南雄、向坂逸郎、櫛田民蔵(11-1-19)、土屋喬雄(15-1-4)らの学者は、総じて「労農派」と呼ばれ、大内は「労農派」の指導者として「講座派」との間に日本資本主義論争が起こった。「労農派」の主張は、「明治維新は一種のブルジョア革命であり、したがってそれ以後、日本社会の構造は土地所有よりも資本の運動によって規制されるようになった」という論調である。しかし、当局から目を付けられ、'38(S13)「労農派」教授グループ事件(第二次人民戦線事件)で検挙され、'44母校を再び追われ辞職させられた。これはコミンテルンの反ファシズム統一戦線の呼びかけに呼応して日本で人民戦線の結成を企てたとして、労農派系の大学教授や学者グループが一斉検挙された事件のことである。この事件を機に、日本共産党に限定されていた検挙が、非共産党のマルキスト・社会主義者一般に及ぶようになってきた(いわゆる治安維持法の目的遂行罪の拡大解釈)。
 戦後、'45母校に三度目の復帰し、'49停年退官。この間、内閣統計委員会委員長、社会保障審議会会長などに就任し国民皆保険や国民皆年金の創設などを答申して、統計制度や社会保障制度の整備のために尽力し、他方憲法擁護の運動に活躍した。
 '50法政大学総長に就任(〜'59)。また日本学士院会員、大原社会問題研究所顧問を務めた。向坂逸郎と共に社会主義協会・社会党左派の理論的指導者の一人として活躍。'55日本学術会議のソ連・中国学術視察団に加わる。門下の美濃部亮吉(25-1-24-1)の東京都知事立候補を強く支持し、「美濃部革新都政をつくる会」の会長になる。美濃部都政を助け実践面でも社会主義を貫いた。なお、鳩山一郎や吉田茂からの大蔵大臣への就任要請があったが全て断った。
 マルクス主義経済学の立場で日本経済学の形成に寄与し、その門下から多くの学者を輩出した。平和問題懇談会のメンバーでもあり、穏健な自由主義者としての評論などにも活躍。'65勲1等瑞宝章受章。主な著書に『明治財政経済史文献解題』『経済学五十年』『日本インフレーションの研究』(共著)などや、A・スミスの『諸国民の富』、エンゲルスの『空想より科学へ』などの翻訳もある。
 '69「世界」(岩波書店)3月号の巻頭論文「東大を滅ぼしてはならない」の中で、東大全共闘事件に触れ、「大学という特殊部落の構造を変えるに相違なく・・・」に記した「特殊部落」という表現に対して、部落解放同盟の朝田善之助らから激しく抗議され、回収騒動となり、翌月の4月号にて編集部と大内の謝罪文を掲載する事件に発展した。これに伴い、同じ岩波書店から発行している『広辞苑』第2版の「部落」の項目内容を大幅に改訂することになった。なお第1版の「部落」の項目の「比較的少数の家を構成要素とする地縁団体の民家の一群。村の一部。」は同じとし、並列していた「特殊部落の略」と記載していたところを、第2版からは「身分的社会的に強い差別待遇を受けてきた人々が集団的に住む地域、江戸時代に形成され、明治初年法制上は身分を解放されたが、社会生活上の差別は完全に撤廃されていない。未解放部落。」と改訂。
 '74.1.29最愛の妻の笹代を86歳の時に亡くしてからめっきり弱くなり、意思の表現がうまく口に出せなくなったことで、人に会うことを嫌うようになった。享年91歳。没後、東京大学経済学部では極めて優れた卒業論文を提出した学生が表彰する「大内兵衛賞」や、統計界の最高栄誉とされる「大内賞」が制定された。また法政大学市ヶ谷キャンパスの58年館に面して造られた庭園を「大内山庭園」と名付け学生の憩いの場となっていたが、旧校舎(58年館)の建替工事に伴い、2019.4(H31)新校舎の利用が開始されるにあたり、その校舎名が「大内山校舎」と命名された。

<コンサイス日本人名事典>
<ブリタニカ国際大百科事典>
<日本大百科全書など>


*自然石の墓石正面「大内家墓」。左側に墓誌がある。妻は笹代。次男の大内力(同墓)も経済学者として活躍。


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