福井県出身。大聖寺藩藩医・適塾門下の医学者である上杉寛二・てる(3-1-4-11)の長男。
旧制四高を経て、1898(M31)東京帝国大学法学部政治学科に進学。在学中に法学者の穂積八束に認められ師事。
以後、自身が研究する憲法学説は穂積八束の影響が強く、君主主権による絶対主義となる。1903(M36)首席(恩賜)で卒業後、同大の助教授となる。
'06〜'09ドイツ留学し、19世紀を代表するドイツの公法学者ゲオルク・イェリネック家に下宿して指導を受けた。
この間、一時、穂積説と距離を置く考えを示した時期もあったが、心境に変化が生じて西遊研学で穂積説の後継者を自任するようになり国家主義者となってゆく。
'12(T1)東京帝国大学教授。同年、『国体に関する異税』を発表して「天皇すなわち国家である」という天皇主権説を主張、美濃部達吉(25-1-24-1)の「天皇機関説」を批判、両者の論争は他にも参加者を得、天皇制絶対主義勢力とデモクラシー勢力のイデオロギー闘争となった。
また単に学者にとどまらず社会運動に関与し、当時盛んになりつつあった護憲運動に対抗して、'13保守的学者・官僚を集め「桐花学会」を作り、また東大内では新人会・社会科学研究会に対抗して興国同志会・七生会を作る('25)など、天皇制絶対主義勢力の理論的・実践的指導者であった。
'16吉野作造(8-1-13-18)の民本主義を批判し、高畠素之(4-1-31-23)と経綸学盟を設立して、国家社会主義運動を進めた。
'20「クロポトキンの社会思想の研究」という論文を発表した森戸辰男を排撃した(森戸事件)。また、赤尾敏らと結んだ建国会など国家主義運動にも身を投じた。
更に、山県有朋の知遇を得て政治活動に足を踏み入れ、大正末期に上原勇作、床波竹二郎(12-1-17-18)らと結んで、若槻礼次郎内閣打倒の政権奪取運動に奔走した。
陸軍・海軍の両大学で教授を兼任。主な著書に、『帝国憲法述義』(1914)、『国体憲法及憲政』(1916)、『国家論』(1925)、『憲法読本』(1928)などがある。享年51歳。
<コンサイス日本人名事典> <朝日日本歴史人物事典など>
*墓石前面には「上杉慎吉之墓」。ちょうどこの墓石と道を挟み向かい合って建つ(3区1種4側11番)和型「上杉家之墓」が本墓。
この墓所にある墓誌に上杉慎吉の刻みもあり、戒名は七生院殿匡風至軒大居士。父の上杉寛二、母のてる、妻のノブ、長男で東京経済大学名誉教授の統計学者である上杉正一郎も眠る。なお、次男の上杉重二郎は北海道大学教授の労働運動史学者である。
※生前論争を繰り広げた人物たちのほとんどが多磨霊園に眠り、大正デモクラシー史を多磨霊園で語れる奇遇さに驚く。
第50回 大正デモクラシーって何? 3部作
・その3 天皇主権説 上杉慎吉 お墓ツアー 「天皇すなわち国家である」
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