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とこなみ たけじろう

床次竹二郎

とこなみ たけじろう

1867.1.6(慶応2.12.1)〜 1935.9.8(昭和10)

大正・昭和期の官僚、県知事、政治家

埋葬場所: 12区 1種 17側 18番

 薩摩(鹿児島市新照院町)出身。薩摩藩士で司法官、洋画家の床次正精(同墓)の長男。幼名は竹熊。1897(M30)家督を相続した。
 1890(M23)東京帝国大学法科政治学科を卒業し、大蔵省に入省し、大蔵書記官、愛媛県収税長などを歴任し、内務省に転じる。 宮城県参事官、岡山県警察部長、山形・新潟各県書記官、東京府内務部長を経て、1904.1.25(M37)第11代 徳島県知事に就任〔任期:1904.1.25-1905.12.31〕。 '05.12.31徳島県知事から第16代秋田県知事に転ずる任がくだるが赴任せず、翌'06.1.17にて秋田県知事から第1次西園寺(8-1-1-16)内閣の内務省地方局長となった。 内務大臣であった原敬に重用され立憲政友会と密となる。一時、初代樺太長官であった楠瀬幸彦(9-1-8)の辞任により、2代目樺太長官を兼任した〔任期:1908.4.24-同.6.12〕が、同じく原と密な関係であった三島由紀夫の祖父である平岡定太郎(共に10-1-13-32)に譲る。
 '11 第2次西園寺内閣で原内相のもとで内務次官を務める。'13(T2)第1次山本権兵衛内閣では鉄道員総裁に就任。政友会入りして現職官吏の入党と話題になる。 鉄道員総裁では、鉄道幹線広軌化計画の中止と地方路線拡張方針を打ち出した。(改軌論争は鉄道発祥時の1067mm軌間を1435mmという世界標準に改めようという運動。 山本の次の大隈重信内閣の際、鉄道員総裁となった仙石貢は床次とは逆に鉄道広軌化にも積極的に賛同)
 '14(T3)山本内閣総辞職に伴い辞任し、郷里の鹿児島県一区から、政友会として衆議院議員補欠選挙に立候補し初当選(以後8回当選)。 政友会総務委員から、'18原敬内閣で内務大臣兼鉄道員総裁に就任。郡制廃止、選挙法改正による選挙権拡張と小選挙区制の導入に尽力。 '21原暗殺後の高橋是清(8-1-2-16)内閣の内務大臣を留任。原亡き後の政友会は党内における内紛が激化し、床次は党内改革派に同調、これにより高橋と対立するようになった。 '24清浦内閣発足後、憲政擁護の立場から打倒を唱えた高橋に対し、床次は清浦内閣支持に回り、榊田清兵衛らと共に政友会を脱党し、政友本党を結成し総裁となり、政・憲両党間に画策。 しかし、党勢は振るわず、'25政友会との合同に反対しつつ提携を図る。後藤新平の仲介により、'27(S2)憲政会に合流して、立憲民政党が結成され党顧問に就任した。だが、'28.8民政党の対中国不干渉政策に反対し脱党。
 田中義一(6-1-16-14)内閣からの政権移行を期待し第3党を計画し新党倶楽部を結党した。導入された中選挙区制から小選挙区制へ戻すことを狙い、政友会との共同で衆議院選挙法改正案を提出したが、露骨に有利な選挙区割りを指摘され、民政党や無産政党の激しい抵抗を受け挫折。
 '29政友会に復帰。'31.12犬養内閣で鉄道大臣に就任。'32犬養首相は5・15事件で暗殺され、後継総裁の座を巡り、鈴木喜三郎と争うが敗れる。 なお、元老の西園寺が鈴木の外交政策や思想に不安を抱き首相に任命せず、海軍の穏健派軍人である斎藤実(7-1-2-16)が首相となった。 同年、国鉄の職域福祉事業を目的として鉄道弘済会の創設に尽力した。これは鉄道員の福利厚生に意を用い公傷退職者を救済するためであり、また、上野駅・東京駅構内で物品販売を行う売店を開く(これが現在のキヨスクの始まり)。発会に当たって五千円という多額の寄付をしている。  '34斎藤の後を継いだ同じ海軍の岡田啓介(9-1-9-3)が内閣を組閣した際に、逓信大臣に任命される。党内の反対を押し切って入閣したため、政友会を除名された。 在任中に心臓病のため自宅にて急逝。享年68歳。 正3位、勲1等旭日桐花大綬章。「首相候補」と呼ばれるも余人の不評を買い、政権獲得の夢を遂に果たせなかった。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<日本歴代知事名鑑など>


墓所

*墓所には3基の石塔が建ち、右から「床次家祖先之墓」、真ん中「床次竹二郎之墓」、左が「床次家之墓」である。竹二郎の墓の右面に「昭和十年九月八日薨去」と刻む。 裏面は3基とも同じ刻みであり、「昭和拾壹年六月 床次正一建之」と刻む。墓誌はない。なお、郷里の鹿児島市新照院町の徳大寺にも分骨された。 父の床次正精は徳大寺に葬られたが、多磨霊園に床次家祖先之墓をわざわざ建之していることから推察するに、こちらにも分骨もしくは改葬しているのではないかと推察する。次男の床次徳二が眠っているかは調査中。

*先妻の清子(同墓)は橋本庸徳の長女。後妻の恭子(同墓)は男爵の水谷川忠起の長女。長男の床次正一(同墓)が墓所建之者である。 次男の床次徳二(1904.2.4-1980.2.22)は第19代総理府総務長官を務めた政治家。長女のはる子は奈良県・岐阜県・山梨県・長野県・長崎県の各県知事、京都府知事を務めた鈴木信太郎に嫁ぐ。 娘のフユは政治家であり研心学園(目白学園)創立者で私学教育の振興に大きく寄与した佐藤重遠に嫁ぐ。なお目白学園の初代・3代は佐藤重遠、2代目はフユ、4代目は床次徳二が理事長を務めた。

*鹿児島中央駅前に床次竹二郎之像が建つ。銅像は彫刻家の朝倉文夫の製作による。'78.10.11(S53)建之。


【多磨霊園に眠る樺太庁長官】

 樺太長は、1905.7.28〜1907.3.31樺太民政長官という呼び名で熊谷喜一郎が務め、それ以後、樺太長長官となった。
 多磨霊園に眠る樺太庁長官は、その初代である楠瀬幸彦(9-1-8)、2代目の床次竹二郎(12-1-17-18)、3代目の平岡定太郎(10-1-13-32)、6代目の永井金次郎(4-1-10-18)、12代目の今村武志(5-2-8)がいる。
 「樺太」についての詳細は永井金次郎のページに書かれている。


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