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ながい きんじろう

永井金次郎

ながい きんじろう

1874.5.3(明治7)〜 1927(昭和2)

明治・大正・昭和期の内務官僚、県知事

埋葬場所: 4区 1種 10側 18番

 新潟県出身。1897(M30)東京法学院(中央大学)卒業。判検事登用試験文官高等試験に合格し司法官試補より内務属となり、後に青森・千葉各県参事官、広島・富山各県事務官、富山県内務部長などを歴任。
 1913.2.20(T2)桂内閣は瓦解し、山本新内閣が組織された。山本は政友会派であり、6月1日地方官の異動を発表。 これにより、永井は第19代高知県知事に就任(在任期間:1913.6.1〜1914.6.8)した。 一時休職を経て、'17〜'19.6.11北海道小樽区長となり、'18開道50年祈念博覧会を催す。'19に第6代樺太庁長官(在任期間:'19.4.17〜'24.6.11)就任した。

<日本歴代県知事総覧など>


【樺太】
 北海道とロシアの間にあるオホーツク海に浮かぶ南北に細長い島である。ロシア名はサハリン。 なお、江戸時代は北蝦夷と呼ばれており、松前藩領とされていた。 江戸時代ではロシアと領有権を争うなどしたが、1854(安政1)日露和親条約により日露国境を樺太島上で定めず是までの仕切りによることを決定した。 明治に入り、1875(M8)樺太・千島交換条約締結により日本は樺太島の領有権を完全に放棄し、全島がロシア領となる。 1905日露戦争において、日本軍が樺太島に侵攻し、全域を占領した。同年、ポーツマス条約により北緯50度を境界に南北に分割され、ロシアより南樺太が日本へ割譲される。行政機関として樺太民政署を設置。
 '07より樺太長発足。'15(T4)には17郡4町58村が設置。'18シベリア出兵で北樺太を占領するが、'25に撤兵。 '43樺太が内地へ移菅され北海地方へ編入。'45(S20)南樺太には約40万人の日本人が移住。同年8月9日ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄し、太平洋戦争に介入。 第二次世界大戦で日本本土最後の地上戦が行われ、8月28日ソビエト軍が樺太全島を占領。 現在の樺太はロシア連邦が南部側も実行支配をしているが、当時のソビエト連邦はサンフランシスコ講和条約に調印していないため、日本政府は国際法上、南樺太は所属未定地としている。そのため、日本の世界地図では白抜きにされている。


【多磨霊園に眠る樺太庁長官】

 樺太長は、1905.7.28〜1907.3.31樺太民政長官という呼び名で熊谷喜一郎が務め、それ以後、樺太長長官となった。
 多磨霊園に眠る樺太庁長官は、その初代である楠瀬幸彦(9-1-8)、2代目の床次竹二郎(12-1-17-18)、3代目の平岡定太郎(10-1-13-32)、6代目の永井金次郎(4-1-10-18)、12代目の今村武志(5-2-8)がいる。
 「樺太」についての詳細は永井金次郎のページに書かれている。


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