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いまむら たけし

今村武志

いまむら たけし

1880(明治13)〜 1960.8.21(昭和35)

明治・大正・昭和期の官僚、政治家

埋葬場所: 5区 2種 8側

 宮城県宮城郡多賀城村出身。農家の長男として生まれる。第二高等学校を経て、東京帝国大学法科卒業。1908(M41)朝鮮総督府に入り官僚として職務に就く。
 '25(T14)朝鮮の第6代 黄海道知事(こうかいどう:現在の北朝鮮の黄海北道・南道の地域にあたり、島嶼の一部は韓国仁川広域市に属している)に就任〔在任:1925.8.11-1928.3.29〕。 '28.3(S8)朝鮮総督府殖産局局長、'29.11朝鮮総督府内務局局長を歴任。'31内地に戻り、'32齋藤實(7-1-2-16)内閣発足に伴い、第12代 樺太庁長官に任命される〔在任:1932.7.5-1938.5.7〕。退任後、日本拓殖協会理事。
 '42.9.15 第14代 仙台市長に就任〔在任:1942.9.23-1946.5.14〕。前市長の渋谷徳三郎が4選目の出馬を断念したことにより、市議会が協議をした結果、全会一致で推薦ができ、仙塩合併・総合開発計画の継承者になりえ、仙台市に馴染みがある宮城県出身の官僚を数名選定し交渉した結果、今村が推され要請を受諾した。 同時期の宮城県知事・東北地方総監の丸山鶴吉、塩竈市長の守屋栄夫は朝鮮総督府時代の同僚であり、三者の協力による市の発展に期待が持たれていた。 しかし、戦時中であることもあり、末期から終戦後にかけて銃後行政、及び戦災復興行政をめぐって市民の不満も高まり、'46.4.10衆議院議員選挙が行われたが、空襲や終戦に伴う混乱、市当局の不慣れ・不手際などによって、2900名余りの有識者が選挙名簿から脱落、投票が出来ない事態が発生し投票所が大混乱となった。 今村はこれらの責任を取る形で選挙翌々日の12日に辞表を提出した。従3位 勲2等。錦鶏間伺候(きんけいのましこう:今でいう功労賞のようなもの)。享年80歳。

<宮城県百科事典>
<旧植民地人事総覧など>


墓所

*墓石は和型「今村家之墓」。右側に墓誌があり、「従三位 勲二等 錦鶏間伺候」の刻みがある。戒名は宣照院殿仁弘志道大居士。 前妻の千枝子(同墓)の父は海軍少将・元老院議官をつとめた貴族院議員の柳楢悦。民藝運動を起こした思想家・宗教哲学者の柳宗悦は二歳上の兄。 父親が亡くなった六ヶ月後に生まれたため父親を知らない。千枝子との子の今村成和(同墓)は国家補償という概念を提案した法学者である。後妻は助子(1894-1974.11.30 同墓)。

*1921.8.4(T10)千枝子が6人目の子供を出産し、その産褥熱が命取りとなり30歳の若さで京城にて他界。その二日後、千枝子の葬式の朝、4番目の子供である成大(同墓)が4歳で急死した。


【多磨霊園に眠る樺太庁長官】

 樺太長は、1905.7.28〜1907.3.31樺太民政長官という呼び名で熊谷喜一郎が務め、それ以後、樺太長長官となった。
 多磨霊園に眠る樺太庁長官は、その初代である楠瀬幸彦(9-1-8)、2代目の床次竹二郎(12-1-17-18)、3代目の平岡定太郎(10-1-13-32)、6代目の永井金次郎(4-1-10-18)、12代目の今村武志(5-2-8)がいる。
 「樺太」についての詳細は永井金次郎のページに書かれている。


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