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くすのせ さちひこ

楠瀬幸彦

くすのせ さちひこ

1858(安政5)〜 1927(昭和2)

明治・大正期の陸軍軍人(中将)、陸軍大臣

埋葬場所: 9区 1種 8側

 早くから秀才としても知られ1873(M6)植木枝盛らとともに山内家より選ばれて上京、東京海南私塾に入る。 のち陸軍に入り谷干城の推薦で81フランスに留学。さらに88ドイツに留学。陸軍大学校教官、ロシア駐在公使館付武官、 第十二師団参謀長、対馬警備隊司令官、由良要塞司令官、樺太長官などを経て、1907(M40)陸軍中将に昇進した。 軍部大臣現役武官制廃止をめぐり木越安綱陸相がその騒動の責任をとって辞し、 1913(T2)6月第一次山本内閣で楠瀬は従来の陸軍の伝統を破って山本のいわゆるごぼう抜き人事で陸相となった。 長州閥には不評の人事だったが、対中政策では山本内閣の慎重路線を引き継ぎ、翌年まで務めた。

<高知県人名事典>


【多磨霊園に眠る樺太庁長官】

 樺太長は、1905.7.28〜1907.3.31樺太民政長官という呼び名で熊谷喜一郎が務め、それ以後、樺太長長官となった。
 多磨霊園に眠る樺太庁長官は、その初代である楠瀬幸彦(9-1-8)、2代目の床次竹二郎(12-1-17-18)、3代目の平岡定太郎(10-1-13-32)、6代目の永井金次郎(4-1-10-18)、12代目の今村武志(5-2-8)がいる。
 「樺太」についての詳細は永井金次郎のページに書かれている。


 


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