京都出身。公家・九清華家の1つ徳大寺公純の次男。兄は徳大寺實則(8-1-1-1)、弟に住友友純、末弘威麿。幼名は美丸。号は陶庵。
同じ九清華家の流れをくむ閑院庶流・597石の西園寺師季の嗣子となり、1852(嘉永5)3歳で当主、公望と改名した。
1854孝明天皇の侍従に任命されるが5歳であったため、1861(文久1)13歳になって近習として宮内に出仕。
1867(慶応3)王政復古に際し参与に任ぜられ朝政に与った。
戊辰戦争には山陰道鎮撫総督に任命し、薩長軍300名をつけて京都を出発させるも、鳥羽伏見の結果がわかり徳川譜代の諸藩と一戦もせず恭順、京都へ凱旋した。
東山道第2軍総督など要職にあって軍功をたて、また越後方面の大参謀として出征し、鎮定後は越後府知事(新潟県)に任命されるも修学の志が強く、1869(M2)官を辞す。
木戸孝充にフランス留学の相談をしたところ、大村益次郎を紹介されアドバイスをもらう。
再び大村に会いに行くため届けを出さずに京都へ赴くも、大村が刺客に襲われ没し、たまたま友人と話し込んで大村に会えなかった西園寺は難を逃れる。
しかし無断で東京を離れたことが政府に見つかり謹慎処分となった。家中で蟄居している時に個人的な塾を開くことを思いつき「私塾立命館」(立命館大学)を創設。
謹慎がとけたあと、1871フランスのソルボンヌ大学に留学し法律を学ぶ。
パリで社会民主主義者エミール・アコラスに師事し、後に首相になるクレマンソーや作家ゴンクール兄弟、中江兆民(篤介)、巧妙寺三郎、松田正久らと交わり自由思想を身につける。
在留10年で帰国。時勢を察して、1881明治法律学校(明治大学)を設立に協力。
また中江や松田らと「東洋自由新聞」を創刊し、社長となり自由主義を鼓吹したが、華族は新聞に関係すべきではないと内勅を頂き、これに対し反論するも明治天皇の思召しと知り、廃刊、退職した。
1882伊藤博文に認められ政界入りし、憲法調査会に随行して渡欧、王室制度の研究調査にあたる。1884.7.7侯爵に叙せられる。
1885特命全権公使としてオーストリア、ベルギー、ドイツに駐在、大隈重信の下に条約改正に従事した。1891帰朝後、賞勲局総裁。
1892民法商法施行取調委員長を兼務。1893法典調査会副総裁(総裁は伊藤博文)。また貴族院副議長となる。1894枢密顧問官。
同年第2次伊藤博文内閣の文部大臣として入閣。翌年、外務大臣を兼任した。1895.6.21勲一等瑞宝章受章。1896.6.5旭日大綬章受章。
第2次松方正義内閣発足に伴い引き続き外務大臣兼文部大臣。1898第3次伊藤内閣で文部大臣。
1900政友会創立委員、枢密院議長、第4次伊藤内閣では政友会内での内部対立で伊藤が総辞職し、次の桂太郎内閣が発足するまでの約1ヶ月間、臨時内閣総理大臣および大蔵大臣を務めた。
'01.5.14勲一等旭日大綬章。同年、日本女子大学設立に協力している。'03立憲政友会第2代総裁に就任。
'06と'11桂太郎と交互に2度内閣総理大臣に就任〈桂園時代〉を画す。第1次内閣では鉄道国有化、第3次日韓協約、日露、日仏協商を締結。
第2次内閣では2箇師団増設問題などで崩壊した。'12.12.21(T1)総理を辞し、元老待遇を受け、その後政変のたびに時局収拾の大任にあたった。'14一時政界を隠退した。
'18.12.21大勲位菊花大綬章を受勲受章。帝国経済顧問に就任。'19ベルサイユ講和会議の首席全権委員として列席し、米・英・仏・伊と共に5大委員として活躍した。
その功により、'20.9.7公爵を陞授された。
その後は、静岡県興津「坐漁荘」などで老後を送りながら、常に政界の動向を注視し、山県有朋、松方正義の没後は「最後の元老」として宮内、府中の大事決定に参与し、後継首班奏請の全権を握った。
その思想は進歩的で時勢を洞察することが深く、世の信望を集めた。'28.11.10(S3)大勲位菊花章頸飾を受章。享年90歳。贈従一位。'40.12.5国葬として営まわれる。 最初、世田谷の西園寺家墓地に葬られたが、後に多磨霊園に改葬。
晩年、西園寺が望みを託し、後継者として期待をした近衛文麿の裏切りに対して政治に絶望し、このままでは日本は亡国するとの予感を抱く。
最後の言葉は「いったいどこへこの国をもって行くのや、こちは・・・」と吐き出すように言った。西園寺が没した翌年、太平洋戦争が勃発する。
<コンサイス日本人名事典> <世界人名辞典> <人物20世紀> <実録首相列伝>
【西園寺家】
西園寺家は閑院家支流で、三条実行の弟の通李を祖とし、平安末期に分立した。代々琵琶を家業とした。公家・清華家・閑院庶流・597石。西園寺師季の嗣子となった公望が1884.7.7侯爵に叙せられ、1920.9.7公爵を陞授された。
西園寺公望は公家・清華家・閑院流・410石の徳大寺公純の次男として生まれる。徳大寺家も西園寺家も藤原公季を始祖とする藤原北家閑院流の血筋の系統を組む。
実兄の徳大寺實則は(8-1-1-1)は侍従長や内大臣を務めた人物。弟の隆麿は住友家の婿養子となり住友財閥を継いで第15代住友吉左衛門(友純)を襲名し財界に君臨。
母方を継いだ末弟の末弘威麿は財団法人立命館の設立者、学園理事。甥にあたる住友友純の長男の住友寛一(19-1-13-102)は画家、美術品収集家。
長男に恵まれなかった公望の後継者として、当初は末弟の末弘威麿が公望の養子となった。しかし素行が悪く、継嗣の座を廃され西園寺家から籍を外された。
威麿は実家の徳大寺家からも入籍を拒否されたため、母方の末弘家を継いだ経緯がある。このような背景があり、西園寺家は公望の婿養子に長門萩藩14代藩主の毛利元徳の子である八郎(同墓)を迎え家督を継がせた。
公望は正室はなく、側室3人を事実上の妻とした。最初の妻である小林きく(菊子)は新橋の芸者玉八であり、娘の新を儲けた。新が八郎と結婚し、西園寺家を継承する。
2番目に妻は中西ふさ(房子)であり娘の園を儲けた。園は高島正一に嫁ぐ。3番目の妻は奥村花(花子)でパリ講和会議に同伴させ話題となった。
西園寺八郎と新の間には3男3女を儲けた。長男の西園寺公一は政治家、次男の二郎、長女の愛子は早死、三男は不二男、次女の春子は住友吉左衛門(友成)に嫁ぐ、三女の美代子は阿部一蔵に嫁いだ。
長男の西園寺公一が家督を継ぐものであるが、ゾルゲ事件(17-1-21-16)に連座して廃嫡されたことにより、西園寺不二男が継いだ。
不二男の妻は日産コンツェルン総裁の鮎川義介(10-1-7-1)の娘の春子。不二男の子に西園寺公友(地球環境情報センター取締役)、西園寺祥子(翻訳家)、西園寺裕夫(五井平和財団理事長)がいる。なお、西園寺裕夫の妻の昌美は尚誠の長女であり、尚順(21-1-2-5)の孫にあたる。
【西園寺公望内閣】
1906.1.7(M39)桂太郎が4年5ヶ月に及ぶ長期政権を投げ出した後を受けて、立憲政友会総裁の西園寺公望が内閣を発足させた。この時、56歳。
第1次西園寺内閣は藩閥ではなく政党をバックとした内閣である。以後、桂と西園寺が交替で政権を担う、いわゆる「桂園(けいえん)時代」の現出となる。
西園寺はパリ仕込みの自由思想、国際主義を身につけた知識人、高雅な文人として知られた。その一方で、政界や党内事情に暗く、決断力、指導力に欠けていた。
政友会の閣僚は内相・原敬と司法相・松田正久の二人だけだったが、この二人が政治工作面で西園寺を助けた。
内閣発足前年の秋、日露戦争後のポーツマス講和条約を不満とした一部の国民が激昂し、日比谷焼き打ち事件などの騒乱事件が起こった。
西園寺は立憲政友会総裁として、民衆の頭を冷やすことを重視する政治・言論活動を進めていたが、東京の騒乱も落ち着いた年明けに、桂がいきなり「内閣を投げ出すから後は頼む」と言ってきた。
実は桂は公卿である西園寺がまさか受けないだろうという腹があったが、西園寺があっさり引き受けてしまったのである。
この結果、公卿が組織した初の内閣、藩閥ではなく政党をバックにした初の内閣が誕生した。他の説として、日露戦争後の議会運営を円滑に動かそうと考えた桂が、政友会の西園寺に「戦争後に政権を譲る代わりに、政府に協力してほしい」と依頼した1904の密約を二年後に果されたという説もある。
西園寺は国木田独歩を敷地内に寄食させ、森鴎外、幸田露伴、島崎藤村、泉鏡花ら十数人を邸宅に招く「雨声会」と証する会合(サロン)をしばしば開いた。
新橋花街では“お寺さん”で通る通人で、困難な政局にあるときも遊び人としての日常は変わらなかった。1908(M41)6月末、首相官邸に閣僚や政友会幹部のほか、藩閥や敵方の桂派の政治家を含めた数百人を招き、新橋の名妓を接待役に大宴会を催したことは有名である。
壇上で得意の自作の小唄を披露した西園寺は、数日後に突然総辞職してしまった。子分の桂を再び政権につけるため、山県有朋が「西園寺の社会主義者取り締まりは手ぬるい」などと秘密奏上したことが原因で、巷では「西園寺内閣毒殺」と騒がれた。
■第1次西園寺内閣 第12代内閣総理大臣 1906.1.7〜1908.7.14
実績:鉄道国有化、第3次日韓協約、日露、日仏協商を締結。
特徴:社会主義思想の規制を緩和、フランスで自由主義を学んだことによるリベラルな政治姿勢。だが、その政治姿勢に元老や桂は不満を抱く。1908.5衆議院選挙で与党の政友会は議席増を果すも1ヵ月後に総辞職。
外務大臣:加藤高明、林薫 内務大臣:原敬 大蔵大臣:阪谷芳郎、松田正久 司法大臣:松田正久、千家尊福 文部大臣:牧野伸顕 農商務大臣:松岡康毅 逓信大臣:山県伊三郎、堀田正養 陸軍大臣:寺内正毅 海軍大臣:斎藤實
■第2次西園寺内閣 第14代内閣総理大臣 1911.8.30〜1912.12.21
実績:1次、2次の西園寺内閣の間を担った第2次桂内閣で韓国併合、関税自主権の回復、大逆事件の取り締まりなど歴史に残る大事業を取り組んだが、第2次西園寺内閣の唯一特筆する点は、明治天皇が崩御し大正時代へ切り替わりを担ったことくらいである。
特徴:前回の1908に続き、1912の衆議院選挙は2連続で任期満了で行われたが、これは日本憲政史上唯一の出来事である。陸軍による常備二個師団の増設要求され拒否。この拒否が結果、陸軍の反発を食らい総辞職に追い込まれた(二個師団増設問題)。
外務大臣:内田康哉(11-1-1-6) 内務大臣:原敬 大蔵大臣:山本達雄 司法大臣:松田正久 文部大臣:牧野伸顕、長谷場純孝 農商務大臣:牧野伸顕 逓信大臣:林薫 陸軍大臣:石本新六、上原勇作 海軍大臣:齋藤實
<人物20世紀> <内閣総理大臣ファイル> <日本史小辞典>
【元老としての活動と世情】
元老とは明治後期から昭和初期にかけ、国家の最高意思決定に参与した人物たちを指し、主に明治維新に功績があった人物が任命され、1940西園寺公望の死をもって元老制度は終焉した。
山県有朋('22没)、松方正義('24没)の没後に西園寺は「最後の元老」として後継首班奏請の全権を握った。
西園寺は静岡県興津「坐漁荘」という別荘宅に住み、首相交代の際は上京して後継首班の奏薦にあたった。以下が、西園寺が元老として関わった後継首班の奏薦である。なお、簡単に内閣の歴史にも触れている。
・清浦奎吾内閣(第23代 1924.1.7-1924.6.11):
虎ノ門事件の責任を取り辞表を提出した山本権兵衛の後継首相として清浦奎吾を推薦した。西園寺は政友会にも憲政会にも政権を担う能力はないとみて、枢密院議長の清浦を推したのである。
清浦の有能な官僚としての経歴と、政党色に染まっていない中立性に期待してであったが、清浦の73歳という高齢と、政党政治が求められている世の中にあって、この内閣は時代錯誤も甚だしい超然内閣であり、終始不人気内閣であった。
内閣誕生後、政友会は内閣派と反内閣派に分裂し、内閣派は脱党して政友本党を結成。政友本党誕生後は護憲三派(政友会、憲政会、革新倶楽部)が内閣打倒を目指し(第二次護憲運動)、わずか5ヶ月で総辞職。
・加藤高明内閣(第24代 1924.6.11-1926.1.28):
西園寺が清浦を首相に据えたのは、政党色に染まっていない清浦に総選挙を行わせ、民意をはかろうとした意図がある。
しかし、閣僚のほとんどが貴族院で占めていたことに風当たりは想像以上に強く、清浦は衆院選に打って出たが、結果は護憲三派の圧勝に終わり、与党は大敗した。
これを受け、西園寺は選挙で第一党になった憲政党の党首の加藤高明を後継首班に指名した。
加藤内閣は当初、護憲三派の連立内閣であったが、政友会の高橋是清(8-1-2-16)が総裁の座を退いたのを機に袂を分かち、革新倶楽部は政友会と合併。'25より憲政会の単独内閣と衣替えした矢先に、加藤は体調を崩し死去した。
・若槻礼次郎内閣(第25代 1926.1.30-1927.4.20):
加藤の急死により憲政会の新総裁となった若槻礼次郎を西園寺は総理大臣として推薦した。若槻内閣は与野党のスキャンダル暴露合戦が激しく、またたび重なる不祥事は政党不信につながった。最後は昭和金融恐慌で経済の大混乱を招き、その責任を取って総辞職。
・田中義一内閣(第26代 1927.4.20-1929.7.2):
西園寺は野党第一党の政友会総裁の田中義一を後継首班に推した。「憲政の常道」で初めて政権が交代した。
金融恐慌対策、対中国政策に力を入れ成果を出した田中内閣であったが、満州の関東軍の独断専行で行われた張作霖の列車爆破爆殺事件で、昭和天皇の「責任者を厳罰に処す」という旨の奏上に対して、処分を軽微に済ませたことが昭和天皇の不興を買って厳しく叱責され、田中は一連の流れの責任を取って総辞職した。
*田中は総辞職の3ヵ月後に狭心症で急死。昭和天皇は自分の叱責が総辞職、そして死に至らしめたのかもしれないという責任を感じ、その後は政府の方針には不満があっても口を挟まないよう決意したという。
・浜口雄幸内閣(第27代 1929.7.2-1931.4.14):
憲政会と政友本党を合同して立憲民生党が結成され初代総裁に浜口雄幸が座った。浜口は首相の座を狙い後継内閣の準備を行っていた。
田中内閣が異例な形で総辞職を受け、西園寺は一連の経緯から政友会ではなく、「憲政の常道」で民生党の総裁の浜口を首班に推した。
浜口は政治空白は許されないと、任命わずか一日で組閣を行った。政府与党は磐石でなければならないとの浜口の主張のもと、第二回普通選挙が行われ政友会に圧勝した。
金融恐慌対策として金輸出解禁をスローガンに掲げ、解禁すればデフレの危険もあったが、自らの信念を貫き「一時的に不景気を招くが、それを乗り越えれば景気は必ず良くなる」と訴え国民の多くはこれを支持するなどライオン宰相として人気を博した。
しかし、ロンドン軍縮会議での条約批准が統帥権干渉にあたるとして軍部の怒りを買い、'30.11.14右翼に腹部を狙撃される。
・若槻礼次郎内閣(第28代 1931.4.14-1931.12.13):
浜口が東京駅で狙撃され、この間、外相の幣原喜重郎が臨時内閣代理を務めていたが、野党の政友会やマスコミは首相不在の批判が過熱し、ついに浜口は内閣を総辞職をした。
その際に、浜口が後事を託したのが、首相経験がある若槻であった。浜口内閣の政策を路襲することを理由に、西園寺も若槻を推した。
若槻は不拡大方針を掲げるも、関東軍が無視し、南満州鉄道の線路を爆破する柳条湖事件が起こる。
関東軍の板垣征四郎と石原莞爾が首謀であるが、関東軍は中国側の破壊工作と発表し満州事変へ。更に林銑十郎率いる朝鮮軍も独断で満州に越境、事変は拡大。軍部を押さえきれない若槻に批判が殺到。政友会と協力し連立を組み、軍部を押さえ込もうとするも内部が混乱し総辞職した。
・犬養毅内閣(第29代 1931.12.13-1932.5.16):
西園寺は「憲政の常道」に基づき政友会総裁の犬養を後継首班に任じた。首相になった犬養はまず国民の信を問うべく総選挙を実施し、政友会が大勝。
昭和恐慌からの回復を目指した。外交面では満州からの撤兵を考えていたが、関東軍がそれに従わず、溥儀を皇帝に擁して満州国を建国。犬養と軍部の対立は激しさを増し、ついには5・15事件が起こり、犬養は凶弾に倒れた。
・齋藤實内閣(第30代 1932.5.26-1934.7.8):
5・15事件のあと、西園寺は誰を後継首班にするかで悩んだ。今までの事例に照らし合わせれば、政友会の新総裁の鈴木喜三郎を推すべきだったが、西園寺は鈴木の外交政策や思想に不安を抱いており、これを断念。
結局、海軍の穏健派軍人の斎藤を次の総理大臣に任じた。これにより、加藤内閣以来8年間続いた政党政治は終焉を迎えた。
斎藤は非政党内閣であったが、政友会や民政党からも閣僚を入れ挙国一致間内閣を組織した。斎藤は満州のことよりも国内政治の安定を第一目標とし、軍部と距離をおいた。
農村の復興に力を入れ、財政政策で輸出量を回復し、景気・国力の回復で成果を出した。長期政権と期待されるも帝人事件で総辞職。なお、帝人事件は内閣打倒のためのでっち上げられたもので、100人以上が収監されながら、裁判では全員無罪となっている。
・岡田啓介内閣(第31代 1934.7.8-19363.9):
大正末期以来、日本の総理大臣の推薦は、唯一の元老の西園寺が取り仕切ってきた。しかし、80代も半ばを過ぎた西園寺は高齢を理由に、西園寺だけではなく、首相経験者・枢密院議長・内大臣を交えて後継首班を選ぶ合議制のシステムにされた。これで初めて選ばれたのが岡田である。
斎藤と同じ海軍の穏健派。斎藤の政策を引き継げ、軍部の暴走の歯止めをかけられる切り札として、斎藤が会議出席者に強く推薦したのである。
しかし、軍部の政治干渉は岡田をもってしても食い止めることはできず、ワシントン条約の廃棄、ロンドン海軍軍縮会議の脱退など軍部に妥協した政策を行わざるおえなかった。
だが、一方で対中国政策は関係改善に努めるなど、何とか国際社会からの孤立を防ごうとした。
岡田の巧みな政治手腕にて2年近く内閣を維持してきたが、史上最大のクーデター事件「2・26事件」が起こる。
岡田も命を狙われ奇跡的に助かるも、この責任を取り総辞職した。2・26事件では「西園寺公望襲撃計画」もされていたが、実行犯内で襲撃の可否で意見が割れ、山口一太郎大尉、板垣徹中尉が襲撃を強く反対し結果襲撃中止となった。
なお、西園寺は事前に事件の起こることを知って、神奈川県警察本部長官舎に避難していた。
・広田弘毅内閣(第32代 1936.3.9-1937.2.2):
前首相選任より合議制システムへとなり西園寺の影響力は低くなってきた。そこで、西園寺は五摂家筆頭の当主である近衛文麿を後継者と定め、政治の帝王学を叩き込んだ。
近衛は西園寺にとって、最後の切り札であったのだ。そして、2・26事件後、西園寺は近衛を次期首班にしようと考えたが、近衛は病気を理由にこれを辞退。
軍部の暴走から日本を救うには、歴史を踏まえた華族しかないと考え、近衛に期待したが辞退を受け肩を落とした。
近衛内閣を断念した西園寺は、外務官僚出身の広田弘毅を後継首班に推薦した。ところが広田はなかなか首を縦に振らず、最終的には近衛と吉田茂の説得を受け首相就任を了承した。
2・26事件後の組閣だけに軍部に左右されない内閣を望まれたが、軍部の横ヤリもあり、結局は軍部の顔色を伺う内閣であった。
'36軍部大臣現役武官制が復活し、軍部は気に入らない内閣には軍部大臣を引き上げて簡単に内閣を総辞職に追い込める力を手に入れる。
外交面でもドイツと手を組み、日独防共協定を結び、米英と対立、軍部の独走を許す形となった。結局、閣内不統一を理由に総辞職(割腹問答)。
・林銑十郎内閣(第33代 1937.2.2-1937.6.4):
あまりにも軍部の暴走が激しいため、西園寺は次期首相に宇垣一成(6-1-12-1)を任命した。
宇垣は加藤内閣の陸相時代に大規模な軍備整理(宇垣軍縮)を行い、その政治手腕と実行力は政界や民衆からも高く支持されていた。
更に陸軍を抑えられるのは宇垣しかいないという思いもあってだ。しかし、これを阻んだのは陸軍であった。
陸軍が大臣を出すことを拒み、軍部大臣現役武官制に則り、宇垣内閣は幻に終わった(流産内閣)。
次の候補の平沼騏一郎も辞退したことで、林銑十郎に宰相の座が転がり込んできた。林は圧力に弱いため、軍部にとっては完全に操り人形であった。
林自身も首相としてのやる気はそんなになく、予算成立後、突然何の理由もなく衆議院を解散、内閣も4ヶ月の短命にて総辞職した。
・近衛文麿内閣(第34代 1937.6.4-1939.1.5):
林内閣の退陣後、西園寺はついに近衛文麿を後継首相に推した。近衛ももはや時局は緊迫しており、覚悟を決めて任を受けた。
「組閣の大命、近衛公に下る」の報が流れると、国民はもちろん政界や軍部、さらには左翼までもが近衛首相誕生に歓迎した。
名門近衛家の出身で45歳の若さ、長身でハンサムと好条件を備えていた。だが、就任後すぐに盧溝橋事件が勃発、これをきっかけに日中戦争が始まり、軍部の横行を許し、リーダーシップを満足に発揮できず、さらに体調を崩し寝込んでしまった。
お見舞いに来た西園寺の側近に、「外相は報告してくれないし、陸相は頼りない」と愚痴をこぼす始末、無責任な姿勢に、近衛を期待した西園寺は失望したという。
この間に、国家総動員法が成立し国民の生活はいっそう苦しくなり、近衛はこの流れを食い止める力もなく、辞表を提出し総辞職した。
・平沼騏一郎内閣(第35代 1939.1.5-1939.8.30):
首相を決める合議制の会議にて、近衛の強い要望で枢密院議長の平沼騏一郎が選ばれることとなった。その際、西園寺は平沼に条件を出している。「英米との協調外交を継続する」というものだ。実は平沼は山県有朋から将来を有望視された人物であったにも関わらず、宰相の機会を得られなかった。理由は、西園寺が平沼の思想を毛嫌いし、平沼も西園寺のリベラルな思想を嫌っていたからであった。だが今回平沼は自分の信条に反していた西園寺の条件を呑んで首相のイスに座ったのである。平沼内閣の課題はドイツのヒトラーから提案された日独伊三国同盟の締結だったが、五相会議でなかなか結論が出ない中、突然ドイツがソ連と独ソ不可侵条約を結び、日独伊三国同盟は頓挫、外交が今までの親独路線から米英協調路線に転換させざるを得なかった。このような中で、平沼は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じましたので」という捨てゼリフを残し、7ヶ月で退陣、総辞職した。
・阿部信行内閣(第36代 1939.8.30-1940.1.16):
平沼内閣の突然の終焉は、後任選びに混乱をもたらした。合議制の会議にて、近衛や広田の再登板、または宇垣などの名が挙がったが、結局、陸軍が推した阿部信行に落ち着いた。
西園寺はこの時、すでに89歳で影響力も低くなっていた。陸軍は阿部は林のように操りやすい存在と見て後継首班に推したとされる。
阿部はそれまでの親独路線を改め、米英強調路線をとり、日中戦争の早期決着を目指した。しかし、アメリカはもはや日本と戦う腹を固めたようで、対米工作はほとんど進展しなかった。
内政面では米の出回りを促進すべく、米価を引き上げたが、これが裏目に出て、物価の高騰や付属を招いた。こうなると、陸軍も早々と阿部内閣に見切りをつけ、国会で退陣を迫り、周囲の揺さぶりに屈して総辞職。
・米内光政内閣(第37代 1940.1.16-1940.7.22):
阿部退陣後、後継首班に米内光政を薦めたのは、何と昭和天皇であった。さすがの西園寺も天皇の声に対してはそれに従うしかない。
天皇は軍部や世論が日独伊三国同盟を後押ししている状況を打破するため、親米英派の米内を任命したとされる。天皇は陸軍に米内に協力するようと伝えたほどであった。
米内は和平の道を探ったが、ヨーロッパでドイツが連戦連勝し、フランスも降伏していた。陸軍内ではドイツとイタリアと手を組みアジア進出の機運が高まっていた。
そこで、陸軍は軍部大臣現役武官制による倒閣を計画し、陸軍大臣の畑俊六を辞任させ、後継陸相を出さず、内閣総辞職させた。天皇は後に米内内閣が続けば戦争にはならなかったと嘆いたとされる。
詳細は岡田重一の頁へ。
・近衛文麿内閣(第38代・第39代 1940.7.22-1941.10.18):
米内退陣後、合議制の会議にて近衛が推薦された。近衛は首相退陣後、枢密院議長の職にあり、第二次内閣への期待の声も高く再登板に備え、新体制の構想を描いていた。
これに対し、西園寺が近衛内閣誕生の報を聞くと、「今頃人気で政治をやろうなんて、そんな時代遅れの考えじゃダメだね」と皮肉ったとされる。
なお、近衛の第二次内閣が発足して4ヶ月後の11月24日に西園寺は90歳で死去。期待され、裏切り皮肉られた近衛であったが、西園寺の訃報に対して、国葬を持って誠意を尽くした。
なお、近衛内閣は日独伊三国同盟に調印、挙国一致の新体制「大政翼賛会」の発足させ政党は全て解散、日ソ中立条約締結、ドイツが不可侵条約を破りソ連侵攻、対米交渉を進めるためいったん総辞職し、第三次内閣を成立させるも、日本軍が南部仏印(フランス領インドシナ)に進駐したことで、米の態度が急変し政局は取り返しがつかない事態となる。
米は綿と食糧を除く、石油を含めた全ての物資の輸出を禁止。日本の弱点は石油であり、米から輸入できなければ、南方に進出して獲得するしかない。
だが、それは日本が米英と敵対する意志を示した行為となる。更にオランダや中国も米英に追随(ABCDライン)。
対米交渉を続けるも、態度は冷たく(ハルノート)、開戦も辞さない状況となり、'41.10.16近衛は内閣を投げ出し総辞職。翌日、陸相の東條英機に組閣の大命が下り、そして12月8日ついに太平洋戦争が始まった。
西園寺は晩年木戸孝充の孫の木戸幸一(18-1-3)にこう言った。「いろいろやってみたが、政治は人民の程度にしか行かないものだ」。
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