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あいかわ よしすけ

鮎川義介

あいかわ よしすけ

1880.11.6(明治13)〜 1967.2.13(昭和42)

大正・昭和期の実業家
(日産コンツェルンの創始者)、政治家

埋葬場所: 10区 1種 7側 1番

 山口県吉敷郡大内村(山口市大内地区)出身。代々毛利家に仕え中士以上の家格を有し郡奉行の役を勤めた。長州藩士で10代目当主の鮎川彌八、ナカの長男として生まれる。ナカは幕末の志士で明治の元勲の井上馨の姪にあたるため、義介からは大叔父。
 旧制山口高等学校を経て、1903(M36)東京帝国大学工科大学機械科卒業。日給48銭の職工として芝浦製作所に入る。西欧で直接学びたいと移民向けの4等船室でアメリカへ渡航。可鋳物鉄工場で週給5ドルの見習工として働いた。ここで鋳物(いもの)についての知識と技術を深めた。
 帰国後、鋳物工業の将来性を井上馨に説き、援助を得て、'10(M43)北九州に戸畑鋳物株式会社(後の日立金属)を設立。マレブル(黒芯可鍛鋳鉄)継手を製造し、「瓢箪印」(ひょうたんじるし)をトレードマークにしヒット製品となった。'21(T10)当時としては珍しい電気炉による可鍛鋳鉄製造開始。翌年には大阪に株式会社木津川製作所(桑名)を設立(後の日立金属三重県桑名工場)。ここでは戸畑鋳物から譲渡した継手製造を行う。先端的な国産初の電気製鋼に成功していた安来製鋼所を吸収合併。'24 農業用・工業用・船舶用石油発動機製造販売を開始した。'26 木津川製作所、帝国鋳物を吸収合併し、東洋一のロール工場を作り上げた。
 '28(S3)義弟の久原房之助の政界入りと第一世界大戦後の恐慌で経営破綻寸前であった久原鉱業を中心とする系列企業の経営を引継ぎ社長に就任し、同社を日本産業株式会社と改称した。当初は前向きではなかったが、同郷の先輩で首相であった田中義一(6-1-16-14)直々に再建の懇請があり渋々応じた。
 当時、日本で走る車が全て輸入車であった時代に、自動車産業の将来性を見抜いて国産車の製造に着手し、アメリカで学んだ可鍛鋳鉄技術を活かした国産車製造に乗り出す。'29 戸畑鋳物東京製作所(深川)を新設し自動車用マレブル鋳鉄製造開始。同.4.24 日本産業の鉱業部門を分離独立、日本鉱業株式会社を設立。'33 自動車工業株式会社(後のいすゞ自動車)よりダットサンの製造権を無償で譲り受け、同.12 ダットサン自動車製造のための自動車製造株式会社を設立し、翌年、社名を「日産自動車」と改称した。
 会社を特殊会社に変更し、公開特殊会社として傘下に、日産自動車・日本産業・日立製作所・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日本炭鉱・日産火災・日産生命など多数の企業を収め、日産コンツェルンを形成していった。
 '34(S9)『ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について』と題する論文を発表。迫害を受けていた5万人のドイツ系ユダヤ人難民を満州に受け入れ、同時にユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満州の開発を促進させると共に、ソ連に対する日本の防壁とする構想を打ち出した。これが後の「河豚計画(ふぐけいかく)」への展開に繋がり関東軍の後ろ盾を得る('38五相会議で政府方針として定められ、陸軍大佐の安江仙弘、海軍大佐の犬塚惟重らが主導して動き出す)。
 '35 戸畑鋳物を国産工業株式会社に社名変更。同年、伊豆大島に私財を投じて公園を設立(後に東京都が買い上げ都立大島公園)。'37 満州での事業専念のため、日立製作所の小平浪平に経営を託す合意を得て、国産工業は日立製作所との対等合併をさせた。
 '37頃 満州国では南満州鉄道が経済的な影響力が強かった。これを嫌った関東軍の求めに応じ、日本産業を満州国に移す計画が上がる。そこに白羽の矢がたったのが、鮎川、野口遵(のぐち したがう:電気化学工業やチッソの日窒コンツェルン)、森矗昶(もり のぶてる:ヨード事業の森コンツェルン)の当時財界新人三羽烏と称された三人であった。満州重工業開発株式会社(満業)が創設され、初代総裁・相談役に就任。同時に満州国顧問にもなる。
 当時の満州国の軍・官・財界の実力者を、東條英機(関東軍参謀長)・星野直樹(7-2-32-4:国務院総務長官)の二人の「キ」と、満州国の実験を握っていた山口県出身の三人、鮎川義介(ヨシスケ)・岸信介(ノブスケ:総務庁次長)・松岡洋右(ヨウスケ:満鉄総裁)の「三スケ」。この五人を「二キ三スケ」(弐キ参スケ)と称された。鮎川・岸・松岡の3人は満州三角同盟とも言われた。
 '39(S14)頃には白洲次郎らと世界情勢を語り合い、ドイツと英仏間の戦争は、英仏の勝利との結論を得る。この頃より関東軍との関係悪化から日産グループの満州撤退を検討し始める。'42頃に満業の総裁を辞任して副総裁の高碕達之助に交代。帰国後は、'43.1.14 貴族院議員勅撰議員となる(〜'45.12.15)。同.11.17 藤原銀次郎が東條内閣に入閣すると、五島慶太・鈴木貞一らと内閣顧問に就任した。
 敗戦後、A級戦犯容疑者とされ、'45.12.2 第3次戦犯指名を受けて逮捕され公職追放。巣鴨拘置所に拘置されたが20か月後に容疑が晴れた。獄中では日本の復興策を練っていたという。'51 追放解除後、翌年には日産グループ各社の出資を得て、ただちに中小企業助成会を設立し会長となる。'52『中小企業助成計画』、'53『鮎川義介縱横談』(友田壽一郎編)、'54『私の考え方』友田壽一郎編、'55『私の人生設計』と立て続けに本を刊行し、中小企業の復興を訴え尽力した。この間、帝国石油社長、石油資源開発社長を務める。
 '53.4.24 第3回参議院議員通常選挙に無所属で立候補して初当選。'56 日本中小企業政治連盟(中政連)を結成して総裁になる、全国中小企業団体中央会会長にも就く。'57.11 臨時国会で中政連を屈強の圧力団体として使い、中小企業団体組織法を成立させた。さらに日本農林漁業政治連盟総裁に就任。その他、岸内閣で経済最高顧問、東洋大学名誉総長、産業計画会議委員を務める。
 '59.6.2 参議院議員通常選挙で中小企業政治連盟総裁自ら全国区で立候補して当選した。しかし、同時に自由民主党公認で30歳の史上最年少当選を果たした次男の鮎川金次郎であったが、数千万円を用いたという自派の選挙違反容疑が浮上し本人が海外逃亡をして議員辞職したことで、同.12 道義上の責任をとって議員を引責辞職した。
 一貫して大切にしていたのが、「中小企業の尊重」と「人づくり」であり、責任感が強く勤勉な中小企業の経営者を信頼し、人を一から育てて適所に配置していった。「人生設計はなるべく低いところから」を信条としていた。生涯に160もの会社をつくっていながら、鮎川の名を冠にしたものは一つもなく、自分の資産もほとんど持とうとしなかった。
 晩年は主に執筆活動を行い、『随筆 五もくめし』(1962)、『百味箪笥 鮎川義介随筆集』(1964)、『中政連十年の回顧と将来への期待』〈中政連運動十年史 別冊〉(1966)のほか、日本経済新聞で「私の履歴書」を連載した。
 '66頃より持病の胆嚢炎を手術したが、高齢により回復がはかどらず入院が長引き、翌年、合併症となった急性肺炎により駿河台杏雲堂病院にて逝去。享年86歳。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<平凡社 世界大百科事典>
<ブリタニカ国際大百科事典>
<東京裁判の100人>
<財界家系譜大観>
<人事興信録など>


*墓石は仏舎利、正面「鮎川家之墓」。それ以外の刻みや墓誌はない。なお分霊塔が郷里の山口県の洞春寺にある。

*鮎川義介のヨミは「あゆかわ ぎすけ」は通称であり、正しくは「あいかわ よしすけ」である。

*河豚計画(フグ計画)については大迫辰雄(11-2-32)のページ内【杉原ビザが日本政府に黙認された理由と背景】を参照ください。


【鮎川義介の家系】
 父の鮎川彌八(同墓)は長州藩士。母のナカ(同墓)は井上馨の姉常子と小沢正路の二女。ナカの姉のスミは三菱財閥の中枢としてその運営にあたった木村久壽彌太(11-1-1-2)に嫁いだ。ナカの妹のキヨは実業家・政治家の久原房之介に嫁ぐ。同じくナカの妹のフジは炭鉱王と称された貝島太助に嫁いだ。
 妻の美代子(同墓)は飯田高島屋会長の飯田藤二郎の長女。二人の間に2男2女を儲ける。
 義介の長男の鮎川弥一(1923.6.1-1991.11.30:同墓)はベンチャービジネス投資支援会社テクノベンチャー社長(前身が中小企業助成会)。弥一の妻の正子の父は外交官・侍従長の三谷隆信(19-1-1)。正子は上皇后美智子の学友。正子の父の三谷隆信の異父兄に小説家・劇作家の長谷川伸、異母姉は教育者の三谷民子(19-1-1)、兄は法哲学者の三谷隆正(19-1-1)。正子の母の李枝子の父は政治家の長尾半平(6-1-5-8)。正子の兄の三谷信(19-1-1)は銀行家、正子の姉の邦子は三島由紀夫(10-1-13-32)の初恋の女性で「仮面の告白」の園子のモデルで銀行家の永井邦夫に嫁いだ。正子の次姉の道子は外務官僚の浅尾新一郎に嫁ぎ、政治家の浅尾慶一郎を産む。弥一の長男で孫の鮎川純太が父の後を継ぎテクノベンチャー社長。なお、2005(H17)1月11日 純太は女優の杉田かおると結婚し「セレブ婚」と話題となったが、同.6.30 離婚を決意したと報じられ、同.8.11 スピード離婚し話題となった。
 義介の二男の鮎川金次郎(1929.3.12-1976.3.21)は政治家になるも選挙違反容疑を疑われ海外逃亡し辞職。父の義介も引責辞職した。義介の葬儀に参列しなかったことで、週刊誌各紙に様々な憶測の記事が出た。金次郎は45歳のときにノーネスユニバーシティ学園長の雅子と結婚したが、二年後に夫婦で滞在していたパリ市内のホテルで気管支喘息の発作により47歳で急死した。
 義介の長女の春子(1920.1-)は侯爵の西園寺八郎(8-1-1-16)の長男で公爵を継いだ西園寺不二男(8-1-1-16)に嫁いだ。
 義介の二女の美菜子は博報堂社長・白光真宏会理事長を務めた瀬木庸介に嫁いだ。庸介の妹の きみ子は石坂泰三(13-1-1-9)の4男の泰彦に嫁ぎ、庸介の次妹の 久美子は田中義一の長男で政治家の田中龍夫(6-1-16-14)の二男の田中卓次に嫁いだ。



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