東京出身。大迫兵輔・照子(共に同墓)の長男。祖父は子爵・陸軍大将の大迫尚敏。伯父は子爵の大迫尚熊(鹿児島市興国寺墓地)。大叔父は陸軍大将の大迫尚道(4-1-31-6)。
青山学院大学卒業。1939(S14)外国人観光客を日本に誘致する目的の旅行会社ジャパン・ツーリスト・ビューロー(後の日本交通公社:JTB)に入社し添乗員となる。
この頃、ナチス・ドイツに迫害されていたユダヤ人たちを救うために、リトアニア日本領事館領事代理の杉原千畝が独断で日本通過査証のビザを発給し、ナチス・ドイツ支配下の欧州からの脱出を助けた。この「命のビザ」を貰ったユダヤ人難民たちは、リトビア、モスクワ(シベリア鉄道)、ウラジミール、イルクーツク、ウラジオストクへとたどり着いており、その後、船で福井県敦賀市に入り、日本到着後は横浜、神戸港などから上海、アメリカ、カナダ、アルゼンチン、パレスチナへと脱出を試みていた。
在米ユダヤ協会では、悲惨な同胞を一人でも多く助け出したいと、ユダヤ難民救援会を組織し、同協会の保証を条件としてアメリカ政府の許可の下に、ウォルター・プラウンド社(後にトーマス・クック社に合併)を通じて、ジャパン・ツーリスト・ビューローのニューヨーク支店に斡旋の協力を依頼し、東京本社に伝わり要請に応えた。
'40.9.10入社二年目の時に、アシスタント・パーサーという立場で、ユダヤ人輸送のため旧ソ連・ウラジオストク−敦賀 間の輸送船ハルピン丸の乗組員に配属された。しかし、ハルピン丸は大きすぎてウラジオストックの岸壁に着壁困難ということで、代船として天草丸(日露戦争で拿捕された元ロシアの客船:2,345トン)が就航することになった。大迫は乗船してくるユダヤ人を見てビューローマンとして責任を持って日本に送り届けようと思ったという。'40.9〜'41.6 片道2泊3日の荒れ狂う日本海の航路を29回往復し、6,000人にも及ぶユダヤ人を出航前・下船後の手続きや乗客の世話などを行い、ビューローマンの中心的な役割を担った(JTBはユダヤ難民を約1万5000人輸送した。またビューロー本部では上陸地敦賀に駐在員を配置、また満州支部では満洲里案内所を強化して輸送に協力した)。
大迫はどの航海とも海が荒れ、船酔いと寒さと下痢に痛めつけられたうえ、異臭に満ちた船内斡旋のつらかったことを想起し、よく耐えられたものであると述懐している。この過酷な中、食事の世話から病人の世話など献身的に寄り添い支えた。またJTBから受け取ったリストをもとに船内で確認作業に追われた。ユダヤ人は同じ名字が多く耳慣れない発音でコミュニケーシュンに苦労が多い中で名前のチェックと上陸に備えた名簿作りを行った。日本上陸の際にパスポートが必要であるが、着の身着のまま逃げて来てパスポートがない人も多く、また身分保障に必要な現金もない者も多かった。そのようなユダヤ人にはユダヤ人協会からJTBに送られてきた現金を配り対応。更に日本上陸後の宿の手配も行い、同地のビューロー駐在員が業務を引き継ぎ任務を終えた。日本にたどり着いたユダヤ人の多くは「敦賀が天国に見えた」と言っている。
大迫の行動を見たユダヤ人が「何故、民間人の貴方が親切にしてくれるのか」という質問に、「旅行者を安全に日本に届けるのが私の役目です」と答えたという。後の大迫の手記には「私たちビューローマンのこうした斡旋努力とサービスが、ユダヤ民族の数千の難民に通じたかどうかは分からないが、私たちは民間外交官の担い手として、誇りをもって一生懸命に任務を全うしたことは確かである」と回想している。後に大迫はユダヤ系の新聞に“救世主”と紹介された。
なお、多くのユダヤ人を救った天草丸は、太平洋戦争が始まると鹿児島から台湾に就航することになったが、'44.11米軍の魚雷攻撃により沈没した。またユダヤ人難民が上陸した敦賀の市街地は、戦争終結直前に米軍の空爆で8割以上が焼失。そのため入管記録や資料などの大半が失われ、ビューローがユダヤ人救済に関わった詳細は不明となっている。
戦後、米国の占領軍統括の時代に、漸く国際観光が許可になり、日本に米国を主体とした観光客が来日することになった。その際、米国と日本を結ぶ豪華客船アメリカン・プレジデント・ラインの「ウィルソン号」にJTBから乗船勤務者第一号として大迫が抜擢された。横浜ーサンフランシスコを一月かけて往復。この客船は大型(18000トン)であり、後に大迫は「天草丸とは天と地の差があり、太平洋横断は生まれて初めてではあったが、日本海の経験があったため、全然船酔い無しで任務を遂行出来たことはありがたかった。」と回想している。享年86歳。
<素敵な日本人へ 〜命をつないだJTBの役割〜 JTB職員 大迫辰雄の回想録 ユダヤ人輸送の思い出など>
*蔵状墓の正面「大迫家之墓」。左側に墓誌があり俗名・没年月日・享年が刻む。妻は綾子。
【杉原千畝(すぎはら ちうね) 1900.1.1-1986.7.31 鎌倉霊園(29区5側)】
岐阜県八百津町出身。早稲田大学、ハルビン学院を経て、1924(T13)外務省書記生となりキャリアをスタート。様々な要職を経て、'37(S12)フィンランド在ヘルシンキ日本公使館に赴任した。
'39.8.28リトアニア在カウナス日本領事館領事代理に着任。'40.7.18より本省の訓命に反し「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証の発給を始め、同.8.31列車がカウナスを出発するまでビザを書き続けた。その数は6,000人ともされている。
'40.9.12(S15)プラハの日本総領事代理として赴任。'41.3ドイツ東プロイセン州日本総領事代理として赴任。同.12ルーマニアの日本公使館一等通訳官として赴任。'43三等書記官として在ルーマニア公使館勤務。'45ブカレスト郊外のゲンチャ捕虜収容所に連行される。'47帰国し、外務省を事実上解雇される・退職(47歳)。
その後は、貿易会社に就職したり、翻訳や語学指導に携わるなど職を転々とした。'69(S44)イスラエルに招待されバルハフティック宗教大臣と面会。彼もまたカウナスで杉原の命のビザを受け取った一人。'85.1イスラエル政府より「ヤド・バシェム賞」を受賞。同.11イスラエルの丘に杉原千畝顕彰碑建之。'86.7.31神奈川県鎌倉市にて86歳で逝去。2000.10.10(H12)外務省の外交史料館において顕彰プレート除幕式。記念プレートには『勇気ある人道的行為を行った外交官杉原千畝氏を讃えて』と書かれている。これにより外務省による「名誉回復」の場となった。
【命のビザ「杉原ビザ」】
'38ナチスドイツのユダヤ人迫害が始まり、極東に向かう避難民が増え始める。'39.8.28リトアニア在カウナス日本領事館領事代理に杉原千畝が着任。その直後、9.1ナチスドイツがポーランドに侵攻をし第二次世界大戦が勃発。9.17ソ連がポーランド東部へ侵攻を開始。'40.6.15ソビエト軍がリトアニアに進駐。7月頃ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民が、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。
7.18公邸の鉄柵に100名以上のユダヤ難民がビザ発給を訴えてきた。カウナスに領事館が設置された目的は、東欧の情報収集と独ソ戦争の時期の特定にあったため、難民の殺到は想定外の出来事であった。杉原は外務省にビザ発給の確認を取るが、本省は避難先の入国許可を得ていない外国人に通過ビザを発給しない方針として反対。苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。東京の本省は日独伊三国軍事同盟の締結も間近な時期に、条件不備の大量難民を日本に送り込んで来たことに関して杉原を厳しく叱責したが、わざと返信を遅らせ本省との論争を避け、公使館を閉鎖した後に、行先国の許可や必要な携帯金のない多くの避難民に関しては、必要な手続きは納得させた上で当方はビザを発給していると強弁し、表面上は遵法を装いながら、「外國人入國令」の拡大解釈を既成事実化して返電した。結果、8.31列車がカウナスを出発するまでビザを書き続け、その数は6,000人ともされている。
ソ連は1940年7月29日付の共産党中央委員会政治局によるスターリン署名入り決定で、難民の領内通過を認めた。これにはリトアニア併合を円滑化するとともに、難民が利用するシベリア鉄道やホテルの代金で外貨を獲得し、さらに世界に散っていく難民からスパイをリクルートする目的があったと推測されている。
リトアニアから「杉原ビザ」で国外脱出を果たしたユダヤ人たちは、シベリア鉄道に乗り、ウラジオストクに到着。次々に極東に押し寄せる条件不備の難民に困惑した本省は、ウラジオストクの総領事館に行先国に入る手続きが終わっていることを証明する書類を提出させてから船に乗る許可を与えることと厳命した。しかし、ハルビン学院で杉原の後輩であったウラジオストク総領事代理の根井三郎は、難民たちの窮状に同情し、官僚の形式主義を逆手にとって、一度、杉原領事が発行したビザを無効にする理由がないと抗議し、本来、漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給して難民の救済にあたった。以降、大迫辰雄に引き継がれ、日本へ上陸がなされる。
日本を経由したユダヤ人たちはアメリカやカナダ、アルゼンチン等に逃れる者もいたが、その多くが上海に行った。ユダヤ難民がビザなしに上陸できたのは、世界で唯一、上海の共同租界、日本海軍の警備地になっていた虹口(ホンキュー)地区だけだったからである。上海でユダヤ人保護活動に尽力したユダヤ問題第一人者の犬塚惟重海軍大佐は、上海ユダヤ人絶滅のためにドイツで開発したガス室を提供するという申し出を阻止するなど命がけでユダヤ人を守り抜いた。
【杉原ビザが日本政府に黙認された理由と背景】
外務省の意に反しユダヤ難民にビザ発給した杉原がなぜすぐに罷免されず、また日本に流れ着いたユダヤ難民に日本は寛容であったのか。上海でユダヤ人保護活動に尽力した犬塚惟重海軍大佐がキーである。
上海ユダヤ人の中で最高の宗教一家アブラハム家の長男のルビーから犬塚は相談を受けた。ポーランドがドイツとソ連に分割され、ミール神学校のラビ(ユダヤ教の教師)と神学生ら約500人がシベリア鉄道経由でアメリカに渡るために、リトアニアに逃げ込んだという。そしてアメリカへの便船を待つ間、日本の神戸に滞在できるように取りはからっていただきたいという依頼であった。犬塚は将来これらの人々が世界各地のユダヤ人の宗教上の指導者として多大の影響を及ぼす人材になることは分かっていた。依頼を受けた犬塚は、外務当局に働きかけた。外務省は公式には規則を逸脱したビザ発給は認められないが黙認はすることとなった。この情報が上海のユダヤ首脳部を通じて現地にもたらされ、神学生たちはリトアニアの杉原からビザを受けることができた。ただし杉原はこの黙認の工作を知らされておらず、発給規則逸脱で職を賭して「命のビザ」を書き続けたのである。
もう一つ外務省が杉原ビザを黙認した背景に、'38.12.6ユダヤ難民に対しても他国人と同様の公正な取り扱いを行うという第1次近衛内閣の五相(首相、陸・海・外・蔵相)会議で決定したユダヤ人保護政策「猶太人対策要綱」の存在と、'34鮎川義介が発案した「ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について」がある。軍部によるユダヤ資金の利用計画を狙い、軍部の一部に満州とロシアの間にユダヤ人居留区・ユダヤ共和国を建国し、ユダヤ資金を導入する計画があった背景も一因している。これは後に、犬塚大佐が「ユダヤ人はフグである。食えば旨いが料理法を心得ていないと命取りになる」と語ったところから、ユダヤ人宗教家マービン・トケイヤーが「フグ計画」と命名したものである。この計画自体は、'41ドイツが不可侵条約を破棄しソ連に宣戦布告した(独ソ戦)ことを受け、ウラジオストク−敦賀間の船便は運航を終了したことや、日米間の和平交渉が決裂し太平洋戦争が勃発して、アメリカのユダヤ資本導入の道が閉ざされ、こうした内外の情勢の変化によって計画は実質的に破綻した。その後、'42ユダヤ人支援を完全に中止して、五相会議決定「猶太人対策要綱」を公式に無効となった。戦後、杉原はこれらの計画を全く知らなかったとインタビューで答えている。
【人道の港 敦賀港】『人道の港 敦賀ムゼウム』
( http://www.tmo-tsuruga.com/kk-museum/ )
敦賀港は、1920(T9)ポーランドの孤児(シベリアは長い間、祖国独立を夢見て反乱を企て捕らえられたポーランド愛国者の流刑の地であり、親を失った子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。'19ポーランドは独立したが混乱が続いていた。外務省を通じて日本赤十字社の迅速な決断により、合計765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療や休養した後に日本船により直接祖国ポーランドに送り返された)、1940(S15)杉原ビザを持つユダヤ難民が上陸した港。そうした「人道の港」としての歴史や資料が観れる博物館がある。
第80回 ユダヤ難民を救った日本人 大迫辰雄 お墓ツアー
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