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いしざか たいぞう

石坂泰三

いしざか たいぞう

1886.6.3(明治19)〜 1975.3.6(昭和50)

大正・昭和期の財界人

埋葬場所: 13区 1種 1側 9番

 東京出身。石坂義雄・ことの三男。牛込北町・愛日小学校時代は、同級に後に陸軍中将・ドイツ大使を務めた大島浩(14-1-2-3)がいた。 '11(M44)東京帝国大学法科を卒業、逓信省に入省、郵便貯金局書記に任官する。'14(T3)高等官に昇進し、為替貯金局事務官補となる。 岡野敬次郎法制局長官の紹介で第一生命保険相互会社創立者で社長の矢野恒太を紹介され、翌年逓信省を退官し、第一生命に入社、矢野社長の秘書となる。矢野に見込まれて支配人などを歴任し、'38第一生命取締役社長に就任。
 敗戦後、公職追放の仮処分を受けたが解除され、吉田茂首相から大蔵大臣就任を打診されたが拒否した。 '49大労働争議のため労使が激突し倒産の危機にあった東京芝浦電気(東芝)の社長に就任、大規模な人員整理を断行して再建に成功した。 '57石川島播磨重工業相談役、東京芝浦電気会長に就任。'56から6期12年間にわたり経団連会長をつとめ、日本の高度経済成長と国際化に力をつくした。 自由主義経済の原則のもと、官僚の干渉を排除する姿勢や指導力に高い評価を受け、また政治への発言、行動も躊躇せず、日本商工会議所会頭の藤山愛一郎(11-1-2-2)と共に鳩山一郎首相に対し退陣を求める等の活動を行った。 '57アラビア石油会長、'60東京オリンピック資金財団会長、'63日本工業倶楽部理事長、'64産業経済諮問委員会(BIAC)日本委員長などを務めた。 また'65日本万国博覧会協会会長となり、'70大阪万国博覧会開催に漕ぎ着けた。享年89歳。死去後、3月14日に正三位勲一等旭日桐花大綬章を追贈された。

<コンサイス日本人名事典>
<堂々たる人 財界総理・石坂泰三の生涯>
<世界人名辞典など>


【石坂泰三の家系】
 父の石坂義雄は埼玉県大里郡奈良村(熊谷市)の地主の家出身で東京に出て家庭教師や書記等の仕事に従事。 妻の雪子の父は農商務官僚の織田一。石坂泰三の兄(長男)の石坂弘毅は陸軍少将。 その長男の子の石坂公成はラホイヤ・アレルギー免疫研究所名誉所長を務めた医学者。 弟(五男)は石坂銀五(13-1-3)。弟(六男)の石坂禄朗は日本輸出入銀行理事などを務めた銀行家・実業家。
 石坂泰三の長男の石坂一義(同墓)は日本銀行を経てケンウッド中興の祖となり会長。次男の石坂泰介(同墓)は陸軍少尉で戦死。 三男の石坂泰夫(同墓)はMBPジャパン株式会社監査役。四男の石坂泰彦は六興電気株式会社取締役会長。五男の石坂信雄(同墓)は東芝アメリカ会長。 次女の操子は臨床心理学者の霜山徳爾に嫁いだ。なお、長男の石坂一義の妻の治子の母方の祖父は北白川宮能久親王。 三男の石坂泰夫の子はオークション会社のサザビーズジャパン社長の石坂泰。


碑 歌碑

*墓石正面は「石坂家之墓」。裏面に「一九五三年三月 泰三 建之」と刻む。墓石右側に墓誌が建つ。墓誌には右から、泰三次男で東大農科学生で学徒出陣し陸軍少尉で比島カヤパで戦死した石坂泰介。泰三の妻・織田一長女の石坂雪子。石坂泰三。泰三五男で東芝アメリカ会長を務めた石坂信雄。泰三三男でMBPジャパン株式会社監査役を務めた石坂泰夫。泰三長男で日本銀行からケンウッドの中興の礎と言われた石坂一義が刻む。また墓誌の最後に刻む相京紀子(1946-2018.7.7)は石坂一義の長女で三菱地所ビルマネジメント社長などを務めた相京智彦に嫁いだ人物。

*墓所内には左側に石坂泰三略歴碑が建つ。また右側には泰三の句碑も建つ。「戯れよ 投げし小石の ひびきより きくなみに 面白きこの世  昭和四十一年十月 泰三」



第262回 財界の総理 石坂泰三 お墓ツアー
1964東京五輪 1970大阪万博 影の立役者


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