メイン » » » 西園寺八郎
さいおんじ はちろう

西園寺八郎

さいおんじ はちろう

1881.4.22(明治14)〜 1946.7.1(昭和21)

明治・大正・昭和期の宮内官僚、公爵、貴族院議員

埋葬場所: 8区 1種 1側 16番

 京都出身。毛利元徳の八男。毛利元徳は毛利敬親の養子で公爵。公爵の毛利元昭の弟。旧姓は毛利。1898(M31)西園寺公望(同墓)の養嗣子となる。1906 公望の娘の新(同墓)と結婚。翌年、公望が講和大使として渡仏した際に妻と共に随行した。
 宮内官として総理大臣秘書、式部次長、東宮職御用掛、主馬頭侍従職御用掛などを歴任。'21(T10)春、当時皇太子殿下だった昭和天皇が訪英の際、小栗孝三郎海軍中将、高畑誠一らと同行した。この時、プロゴルフの試合を初めて観戦した。'26.12(S1)大正天皇崩御に伴い大喪使事務官、'27 大禮使参興官を務める。'28.12.28(S3)勲一等瑞宝章。'33.4 宮内省御用掛。
 '40 養父で元老の西園寺公望が没したため、西園寺家の家督を相続し西園寺家の第36代当主となり公爵を継承した。'40.12 公爵議員として貴族院議員となり、帝室制度審議会御用掛となる。貴族院議員は没するまで務めた(〜'46.4)。正3位 勲1等。享年65歳。
 '41 西園寺家の嫡嗣子であった長男は西園寺公一(1906.11.1-1993.4.22)が外務省嘱託を務めている時にゾルゲ事件に連座をし逮捕されたため西園寺家から廃嫡された。そのため三男の西園寺不二男(同墓)に西園寺家を継がせた。

<大衆人事録 東京篇>
<人事興信録など>


墓所 墓所

*大きい鳥居をくぐると、墓所には二基建つ。入口正面に和型「西園寺家墓」、裏面「大正九年十二月建」。左手側正面和型「西園寺公望墓」、裏面「昭和十五年十一月二十四日薨」。墓石左右の灯篭には「国葬委員」と刻む。


【西園寺家】
 西園寺家は閑院家支流で、三条実行の弟の通李を祖とし、平安末期に分立した。代々琵琶を家業とした。公家・清華家・閑院庶流・597石。西園寺師季の嗣子となった公望が1884.7.7侯爵に叙せられ、1920.9.7公爵を陞授された。
 西園寺公望は公家・清華家・閑院流・410石の徳大寺公純の次男として生まれる。徳大寺家も西園寺家も藤原公季を始祖とする藤原北家閑院流の血筋の系統を組む。 実兄の徳大寺實則は(8-1-1-1)は侍従長や内大臣を務めた人物。弟の隆麿は住友家の婿養子となり住友財閥を継いで第15代住友吉左衛門(友純)を襲名し財界に君臨。 母方を継いだ末弟の末弘威麿は財団法人立命館の設立者、学園理事。甥にあたる住友友純の長男の住友寛一(19-1-13-102)は画家、美術品収集家。
 長男に恵まれなかった公望の後継者として、当初は末弟の末弘威麿が公望の養子となった。しかし素行が悪く、継嗣の座を廃され西園寺家から籍を外された。 威麿は実家の徳大寺家からも入籍を拒否されたため、母方の末弘家を継いだ経緯がある。このような背景があり、西園寺家は公望の婿養子に長門萩藩14代藩主の毛利元徳の子である八郎(同墓)を迎え家督を継がせた。
 公望は正室はなく、側室3人を事実上の妻とした。最初の妻である小林きく(菊子)は新橋の芸者玉八であり、娘の新を儲けた。新が八郎と結婚し、西園寺家を継承する。 2番目に妻は中西ふさ(房子)であり娘の園を儲けた。園は高島正一に嫁ぐ。3番目の妻は奥村花(花子)でパリ講和会議に同伴させ話題となった。
 西園寺八郎と新の間には3男3女を儲けた。長男の西園寺公一は外務官僚・政治家、次男の二郎、長女の愛子は早死、三男は不二男、次女の春子は住友吉左衛門(友成)に嫁ぐ、三女の美代子は阿部一蔵に嫁いだ。 長男の西園寺公一が家督を継ぐものであるが、ゾルゲ事件(17-1-21-16)に連座して廃嫡されたことにより、西園寺不二男が継いだ。 不二男の妻は日産コンツェルン総裁の鮎川義介(10-1-7-1)の娘の春子。不二男の子に西園寺公友(地球環境情報センター取締役)、西園寺祥子(翻訳家)、西園寺裕夫(五井平和財団理事長)がいる。なお、西園寺裕夫の妻の昌美は尚誠(21-1-2-5)の長女であり、尚順(21-1-2-5)の孫にあたる。宗教家の五井昌久の養女。

<日本の名門1000家など>


西園寺 新(さいおんじ しん)
1886.12.20(明治19)〜 1920.1.10(大正9)
西園寺八郎の妻、西園寺公望の娘
 西園寺公望(同墓)庶子女。仏和女学校卒業、日本女子大学卒業。
 1906(M39)八郎と結婚。昨春、父の公望が講和大使として渡仏の際、夫君とともに随行。 遺族は長男の公一(M39)11月生。次男の二郎(M40)10月生。長女の愛子(M41)11月生。 三男の不二男(M43)10月生。次女の春子(T2)1月生。三女の美代子(T4)8月生。 かねて懐妊中流感に罹り東京麻布飯倉片町の八郎邸で療養。数日前流産し容態悪化し1920(T9)1.10逝去。

<大正過去帳197頁>
<五輪塔様より情報提供>


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・さ行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。