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しょう じゅん

尚 順

しょう じゅん

1873.4.6(明治6)〜 1945.6.16(昭和20)

明治・大正期の沖縄の新聞人、
男爵、貴族院議員

埋葬場所: 21区 1種 2側 5番

 最後の琉球国王・尚泰の四男として生まれた(母は松川按司)。琉球最後の王子位であり、松山の名島を賜り松山王子を称した。号は鷺泉。 元来琉球は日本と中国(清国)とに使を送り、独自性を保っていたが、1872(M5)日本は強引に尚泰を琉球藩王に封じた。 無論清国はこれを承認しなかったが、1879廃藩置県を強行され400年にわたる尚氏の沖縄支配は終わった。 (この問題が日清両国間の争点となり、日清戦争勃発)これに伴い翌年、父と共に7歳で上京。日清戦争で日本の勝利により沖縄は日本の領土となる。
 1887(M20)次兄・尚寅(のち男爵)とともに帰郷。旧支配層のトップとしてさまざな活動を行った。 1893年太田朝敷・護得久朝惟・豊見城盛和・高嶺朝光らを麾下に沖縄最初の新聞である『琉球新報』を創刊、1896年に特旨をもって男爵を授けられる。 1899年には沖縄銀行を設立、1904年には貴族院議員に当選し、二期つとめている。 ほかにも沖縄広運(株)の設立、桃原農園を経営し数々の植物を沖縄へ移入した(パイナップルも彼によるもの)。 一方では杣山問題にからみ、自らの新聞社による謝花昇への攻撃も行っている。 また1896年には兄・尚寅のもと、『琉球新報』創刊時の顔ぶれに伊江朝真(のち男爵)・知花朝章・伊是名朝睦らを加えた錚々たるメンバー公同会運動(すなわち復藩運動)を展開している。 能書家で知られ沖縄三筆の一人に挙げられるほか、博覧強記を誇るかなりの教養人でもあった。
 尚家とも交流の深かった東恩納寛惇(17-1-26)は、昭和15.1.1の『琉球新報』紙上で「鷺泉先生に上る書」と題し、こう評価している。
「郷土歴史の中に、吾等は幾多の偉人傑士を知ってゐる。乍併、その学の深き、芸の多き、趣味の広き、未だ先生の如きを知らない。 文墨を談ぜしめて、古今先生の右に出づる者はないであらう。 陶磁を語り、飲食器用を論じ、その他音楽舞踊、衣服調度、有職故実に至るまで、知識の博大、趣味の広汎、古今その匹儔を見ない。」

*沖縄戦で没し、妻・尚真子(伊是名朝睦の長女)をはじめ、長男・尚謙、三男・尚信、四男・尚計、孫の尚忠昭や尚忠正らを亡くしている。
 この松山御殿(尚順男爵家)には墓所は二箇所あり、沖縄とこの多磨霊園のものがある。 どちらにも墓誌がなく、移葬・分骨がどう行われたか詳らかではないが、ここでは一応尚順の墓所として紹介しておく。 なお、現在確実に言える埋葬者は以下のようになる。

沖縄墓所・・・尚順、尚詮(順の六男)
多磨霊園・・・尚誠(順の次男)

*没後の爵位は次男であり多磨霊園の墓所建立者である尚誠が継承したが、沖縄の資産は六男・尚詮により管理運営された。 多磨霊園の墓所は誠が'62(S37)に建立し、現在の管理者は桃原農園代表者で誠の長男の厚である。 墓所内には尚家のみの墓石と裏面に建立者で「喪主尚誠」の名しか刻まれていない。墓誌なし。


*蛇足ながら尚順を由来・中心として、多磨霊園に眠っている人々を挙げると以下のようになる。
 甥にあたる尚家第21代当主の尚昌侯爵の妻・尚百子は同霊園に眠る小笠原忠忱(2-1-4-11)の次女。 これも甥になるのだが、同霊園に眠る尚明(11-1-4-22)はプロジェクトXにも登場した人物で、ダイニングキッチンの導入の提案者。 その妻・道子(11-1-4-22)はいわゆるタコウインナーの考案者である。 また同じく同霊園に眠る神山政良(11-1-10)は義弟にあたる(神山の妻・八重子は尚泰の八女、つまり尚順の妹である)。 さらに同霊園に眠る親泊朝晋(25-1-8-27)(親泊朝擢の次男で、朝省の弟にあたる)へは、五女・芳子が嫁いでいる。


*ところでこの多磨霊園墓所には白光真宏会の「世界人類が平和でありますように」の例の白柱があるが、 これにも実は人間的な繋がりがある。白光真宏会の現会長・西園寺昌美は尚誠の長女であり、尚順の孫にあたる。 西園寺昌美は西園寺公望(8-1-1-16)の曾孫・裕夫の妻。

<コンサイス日本人名事典>
<日本の名門1000家>
<仲村顕様より情報・写真提供>


松山御殿墓 松山御殿墓
沖縄県 松山御殿墓


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