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かみやま せいりょう

神山政良

かみやま せいりょう

1882.4.17(明治15)〜 1978.10.12(昭和53)

大正・昭和期の官僚、大衆運動家

埋葬場所: 11区 1種 10側

 沖縄県首里出身で氏は東氏、自ら唐名を東逸泉と名乗った。 父・政方(同墓)と母・マカド(同墓)の次男として生まれ、東京第一高等学校をへて1909(M42)東大法学部卒業し大蔵省へ入省した。東京第一高等学校時代には有田八郎(9-1-1-2)や前田多門(16-1-3-7)らとともに学ぶが、彼らも東大へすすみ、卒業後もその親交は絶えなかった。
 父は尚典(尚家20代当主。のち侯爵)の御側士として尚家に仕えていたのだが、そのこともあり尚家とは関係が深く、'11(M44)尚典の長男である尚昌(尚家21代当主。のち侯爵)の英国留学に随行し、オックスフォード大学で四年間政治経済学を学んだ。帰国後は専売局に勤務し、名古屋地方専売局長、東京地方専売局長などを歴任した。'23(T12)には東恩納寛惇(17-1-26)から沖縄県出身学生を支援する明正塾を引き継ぎ、後進の育成にも力を注いだ。
 '36(S13)退官後も会社役員や社長を務めるかたわら在京沖縄県人会会長に就任した。 敗戦後にあっては、発起人に比嘉春潮(26-1-17)、顧問に徳田球一(19-1-31-2)らが名を連ねていた沖縄人連盟の三代会長に就任、'53には沖縄祖国復帰促進協議会会長となり、沖縄の復帰運動に心血を注いだ。 官途についてすぐのころ、上司の仙台税務署長に酒席で沖縄のことをからかわれ、公憤のあまり署長を背負い投げで投げ飛ばして、左遷されたエピソードが知られる。

<コンサイス日本人名事典>
<仲村顕様より情報提供>


墓所

*墓石は和型「神山家之墓」。裏面「昭和十五年六月二十日 神山政良 建之」と刻む。右側に墓誌がある。戒名は清光院顕政虎浄居士。

*妻には最後の琉球国王である尚泰(尚家19代)の娘・八重子(同墓)をむかえている。

*義兄の尚順(21-1-2-5)も多磨霊園に眠っている。


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