父・佐平の長男として生まれる。「球一」という名は「琉球一の男に」ということからの命名である。
沖縄県名護出身であるが、近所に住んでいた宮城与徳(17-1-21-16)は弟・正次の同級生であった。
1920(T9)判検事登庸試験に合格し弁護士となり、同年日本社会主義同盟結成に参加、22モスクワの極東民族大会に出席。帰国後、日本共産党創立に参加、中央委員。
23新潟県の木崎村小作争議には浅沼稲次郎(18-1-3-12)らとともに運動に参加するも、いわゆる第1次共産党弾圧事件で検挙。
24日本共産党の解党決議後、党再建論をとなえ、中央ビューローの中心に。27(S2)モスクワに赴き〈27年テーゼ〉作成に参加、28総選挙立候補。
同年3・15事件で検挙され、以後法廷と獄内で18年間非転向で闘い通した。戦後出獄し直ちに党再建活動の中心、45書記長。
46以来衆院議員に選出された。翌年には同じく獄中で18年間戦い続けた同志・志賀義雄(25-1-76-1)と『獄中十八年』を共著。
また45に結成された沖縄人連盟には顧問として参画したが、このときの中央委員には松本三益(日本共産党幹部)がおり、人生の数奇を感じさせる。
その後、50マッカーサー指令で追放、非公然活動を行い、のち中国に亡命。
毛沢東やスターリンと会談し支持を得る一方、伊藤律らとともに亡命指導部「孫機関」から武装改革をはかるが失敗。
53持病であった糖尿病が悪化し、北京で客死した。
55年までその死は明らかにされないが、同年9月13日に北京で追悼大会が行われ、三万人が参列したという。
遺骨は妻の徳田たつ(同墓)と志賀義雄の手によって帰国するが、ここ多磨霊園をはじめ青山霊園の革命戦士合同碑、八柱霊園(千葉県松戸市)の徳田家墓所に分骨されている。
浅沼稲次郎は『回想の徳田球一』の中で次のように球一を評している。
「合法、非合法は別として、社会運動家にとって必要なことは、その組織力であり、行動力であり、政治力であると思う。
徳田氏はこれ等を備えたすぐれたる指導者であったと思う。戦前、戦後を通じてこの組織力、行動力、政治力を備えた政治家は少ない」