父・与正と母・カマドの次男として生まれる。
沖縄県名護出身だが、近所に住んでいた徳田球一(19-1-31-2)は同級生・徳田正次の兄であった。
沖縄県立師範学校に入学するも病気で退学した。
当時沖縄は大変貧しく、宮城家も生活のために父や兄・与整、従兄の与三郎らは渡米し生計をたてていたが、1919(T8)に兄の招きで与徳もアメリカへ渡った。
渡米後はカリフォルニア州立美術学校やサンディエゴ官立美術学校に学び、'25には沖縄県における良心的兵役拒否者の先駆けである屋部憲伝らとともに「社会問題研究会(のち黎明会)」を結成、その活動の中で共産主義へと傾斜していき、この頃プロレタリア芸術会の機関誌「プロレタリア芸術」の発行に協力もしている。
'31(S6)になるとアメリカ共産党日本部に入党し、赤色救援活動や反戦運動に従い、'33に密命を帯び帰国。
尾崎秀実(10-1-13-5)とゾルゲ(同墓所)の連絡に当たり、九津見房子、田口右源太らを組織し反戦のための情報活動を行った。
'41年10月世に言うゾルゲ事件で検挙され、そのご未決勾留中に巣鴨刑務所で結核のため獄死した。
作品に「林間」「月光像」他がある。
その遺骨は一度沖縄に渡り、宮城家の墓所に埋葬されるも与徳は国賊として戸籍は抹消。
事件後遺族は白眼視され、ついに与徳の遺骨とともに日本を離れ渡米した。
戦後ゾルゲの名誉が回復されると、この事件に連座した人々の活動も見直されることとなり、与徳の遺骨は分骨され再び日本に戻り、同志ゾルゲとともに眠ることとなった。
尾崎秀実は裁判中に与徳の死を告げられるが、その事について妻子に宛てた書簡で次のように述べている。
「裁判長が法廷で宮城与徳君が先月の今頃死んだことを告げました。
予期したことではありましたが感慨深いことでした。肺病です。ここの生活は彼の健康では堪えられなかったのでしょう。
彼は実にいい男でした。彼の絵は一般受けはしませんでしょうが、一種の魅力を持っていました。
色彩が特異なもので、それにどの絵も独特の淋しさを持っていることが感じられます。
全く天涯の孤客で、郷里の沖縄から誰も遺骸引取りに来なかったそうです。家にある絵を大事にして下さい。」
(尾崎秀実『愛情はふる星のごとく』より)
*与徳の叔母の証言によると、この頃は家の経済的な事情で遺骨受け取りがかなわなかったという。
*尾崎秀実の娘は与徳から絵の指導を受けていた。
*従兄の与三郎も活動家であり、'32のロングビーチ事件で逮捕・国外追放となった。
与三郎はソ連に渡ったが日本のスパイとして38年10月2日に銃殺処刑された。
この事実はソ連崩壊後に明らかにされた(1989年名誉回復)。
【ゾルゲとその同志たち】碑には以下の人名が刻む |
ゾルゲ,リヒアルト | 1944.11.7刑死(巣鴨) |
河村好雄 | 1942.12.15獄死(巣鴨) |
宮城興徳 | 1943.8.2獄死(巣鴨) |
尾崎秀実 | 1944.11.7刑死(巣鴨) |
フランコ・ヴケリッチ | 1945.1.13獄死(網走) |
北林とも | 1945.2.9釈放の二日後死 |
船越寿雄 | 1945.2.27獄死 |
水野 成 | 1945.3.22獄死(仙台) |
田口右源太 | 1970.4.4歿 |
九津見房子 | 1980.7.15歿 |
川合貞吉 | 1991.7.31歿 |
【ゾルゲの墓 露大使館承継へ】
ゾルゲの名誉回復後、ロシア大使館員や来日した政府要人がゾルゲの命日(11月7日)や対独戦勝記念日(5月9日)に合わせて墓参に訪れている。
2020.10.29(R2)ゾルゲ墓所地にてゾルゲ生誕125周年(誕生日は10月4日)の式典が行われた。式典には駐日アゼルバイジャン、アルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン大使の他、儀仗兵も参加。駐日ロシア大使のガルージンは「ゾルゲ氏が旧ソ連の各共和国の自由と独立を守った」と述べた。墓には花輪と生花、儀式用のウォッカの酒杯とピロシキが供えられた。この式典で在日ロシア大使館のセルゲイ・シャシコフ駐在武官が、ゾルゲの墓の権利を在日ロシア連邦大使館が相続人より譲り受けることになったと発表した。
ゾルゲの墓は石井花子が2000(H12)に没するまで管理者として守ってきた。花子没後は花子の姪が守ってきたが、2018.11 その姪も他界した。現在の相続人は遠方に移住しているため墓を維持することが困難であることからロシア大使館に相談を持ち掛けていた。都立霊園の管理する東京都の規定では、墓所の使用権の承継は原則として親族に限られているが、今回は相続人が遺言書にロシア大使館への贈与を記載することで特別に認められた。使用権の正式な承継は遺言が効力を生じてからであるが、ロシア大使館は2021年から東京都に墓所の管理料を代納している。
シャシコフは式典で「今年、一定の法的手続きを経て、石井花子さんの相続人が、ゾルゲ氏の墓の権利を在日ロシア大使館に譲渡するという遺言書を作成した。そのため今、この墓の全責任は我々にある」と述べた。ロシア大使館は「これまでと同様に墓参をして、ゾルゲを敬っていきたいという観点から話し合いを進めた」とコメント。また「ロシアはソ連の承継国家であり、ソ連邦時代の1964年に国家英雄の称号を得たゾルゲの墓についても、合意に基づいて大使館が使用権を承継することは問題ない」と指摘し、「これからもゾルゲにしかるべき敬意を示していきたい」としている。
<毎日新聞「ゾルゲの墓 露大使館承継へ」田中洋之(2021.1.5夕刊)など>
※多く記事や書物では「リヒャルト」としているが、墓石や墓誌には「リヒアルト」と刻むため、ここでは「リヒアルト・ゾルゲ」として統一する。
|