東京市芝区伊皿子出身(本籍は岐阜県加茂郡白川町)。報知新聞記者の尾崎秀真(ほつま:尾崎白水)・きた の子として生まれる。兄に尾崎秀波、弟に尾崎秀束の三人兄弟。作家で文芸評論家の尾崎秀実は異母弟。
生後5か月の時に父が台湾日日新報社漢文部主筆として赴任することになったため一家で台湾に移住。幼少期を台湾で過ごし、台北第一中学校までこの地で学び、父の影響で中国の歴史・文化に親しむ。第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部に進学。在学中に起こった第一次共産党検挙事件、農民運動者検挙事件、甘粕事件などから刺激を受け、社会主義を開拓していくことに英雄主義的な使命を感じるようになった。大学卒業後はそのまま大学院に進学し、大森善太郎経済学部教授によるブハーリン「史的唯物論」の研究会に参加して、共産主義の研究に没頭、共産主義者となった。
1926.5(T15)東京の朝日新聞社に入社し、社会部記者となる。この頃は「草野源吉」の偽名で社会主義の研究会や関東出版組合などに所属。'27(S2)大阪朝日新聞の支那部に籍を置き、特派員として大阪朝日新聞社上海支局に転勤。英語とドイツ語に堪能であったため、外交方面を受け持つこととなる。滞在中、左翼文芸派の〈創造社〉に出入りし、東亜同文書院学生らの史的唯物論研究に参加。この頃は「白川次郎」名義で寄稿する。中国共産党とも交流した。'28アグネス・スメドレーと出会い、コミンテルン本部機関に加わり諜報活動に間接的に協力するようになる。スメドレーを通じて、フランクフルター・ツァイトング紙の特派員のジョンソンと名乗っていたリヒアルト・ゾルゲ(17-1-21-16)と出会い、コミンテルン諜報機関に参加。
'32帰国後は大阪本社に戻り、ゾルゲと再会し諜報組織に勧誘され参加。'34東京朝日に転じ、東亜問題調査会に勤務。東亜共同体論でアジア民族の解放を唱えるなどの文筆活動を行なう。この時期にアグネス・スメドレー著『女一人大地を行く』を白川次郎名義で翻訳出版している(後に特高警察は尾崎がこの本を出していたことからスパイと疑うこととなる:戦後は本名で再出版)。'36太平洋問題調査会に中国問題の専門家として参加。'37政策研究団体である昭和研究会に入り、翌年、朝日新聞社を退社。
中国問題に詳しいことから、第1次近衛文麿内閣の嘱託となり、近衛主催の政治勉強会「朝飯会」のメンバーになり、'39.1 内閣総辞職まで勤める。'39.6.1満州鉄道調査部の嘱託となり東京支社に勤務。'40.7.22第2次近衛内閣、'41.7.18第3次近衛内閣でも嘱託。この間、ゾルゲの諜報活動にも協力していた。共産主義者としての活動は同僚はもちろん妻にさえ隠し、自称「もっとも忠実にして実践的な共産主義者」として、逮捕されるまで正体が知られることはなかった。
'41.10.15ゾルゲ事件の首謀者の1人として逮捕される。訊問には積極的に答え、28回分の検事・司法警察官訊問調書、また28回分の予審判事訊問調書などの膨大な量の資料を遺した。'42.3.8第22回調書では「我々のグループの目的・任務は、狭義には世界共産主義革命遂行上の最も重要な支柱であるソ連を日本帝国主義から守ること」と供述した。'42.6.16司法省が事件を発表する。'43.9.29東京刑事地方裁判所で治安維持法・国防保安法・軍機保護法などの違反を理由で死刑判決を受ける(一審)。'44.4.5大審院が上告を棄却し死刑が確定。同.11.7ロシア革命記念日の日に巣鴨拘置所でゾルゲとともに処刑された。享年43歳。
戦後、妻子との獄中手記『愛情はふる星のごとく』はベストセラーとなった。また、ソ連のスパイとして働いた功績からソ連政府(ロシア政府)から名誉回復がなされている。
<コンサイス日本人名事典> <学習人名事典> <各種ゾルゲ事件にまつわる著作多数>
*墓柱に「尾崎秀實 英子 之墓」。裏面「一九四四年十一月七日卒 一九七二年五月三十日卒 西園寺公一謹書」と刻む。2020(R2)娘の楊子の夫で歴史学者の今井清一が亡くなった後、同墓に埋葬され、墓所右側に墓誌が建った。
*妻の英子(同墓)は、尾崎家の親戚・従姉妹(叔母の娘)。初め兄の尾崎秀波が大学生のときに結婚したが、秀波の入営中に、弟の秀実と不倫関係となり別居し、'27.10(S2)兄の秀波と英子は離婚。この時期の秀実は大阪朝日新聞社支那部に転勤、豊中で英子と同棲を始める。'30.2秀実と英子は正式に結婚。'41秀実が投獄されるまで共産主義思想やスパイ・諜報活動を英子は全く知らなかった。投獄から処刑までの3年間に、尾崎は獄中から残された家族、妻の英子と、娘の楊子に宛て、二百余通の手紙を送り、戦後『愛情はふる星のごとく』として刊行された。なお、この本の編者でもあり歴史学者で横浜市立大学名誉教授の今井清一と娘の楊子は結婚した。
*秀実の異母弟である大衆文芸評論家として「ゾルゲ事件」の真相究明などで活動していた尾崎秀樹(おざき ほつき:1928.11.29-1999.9.21)は生前、没後は秀実の墓所に入りたいと懇願していたが、詳細は不明である。しかし、尾崎秀樹よりも後に亡くなった今井清一が刻む墓誌が建ったことにより、尾崎秀樹は同墓に眠っている可能性は低いと思われる。
【愛情はふる星のごとく】
1944(S19)刑死した尾崎秀実の家族との書簡集・獄中手記。戦後、1946.9 まとめられ世界評論社により出版された。獄中の尾崎から妻・英子と娘・楊子に宛てられた個人的なメッセージであり、掲載されているのは全書簡243通のうち73通と遺書である。
尾崎の友人の松本慎一が尾崎の妻の英子に働きかけ、英子らが1941年以来獄中の尾崎から受け取っていた一連の書簡の出版を計画。書簡はまず『世界評論』『人民評論』などの雑誌に連載された。『世界評論』は尾崎と親交があった小森田一記が起ち上げた(1945)世界評論社の雑誌である。終戦直後であったことから、小森田は家族との死別、疎開などを経験した戦後の読者層が「愛情と別離」の経験に共感するであろうことを意識し、出版にあたって書簡を選定する際に、ゾルゲ事件関連の情報よりも「愛と死」をテーマとして重視して選定した。『愛情はふる星のごとく』という題名は尾崎が自分の死刑確定に際して著した1944年4月の書簡の一節から取られた。出版後は反響を呼び、昭和21年度のベストセラーとなる。1946年度と1947年度の日本の書籍売上でも2位を占め、1948年度は再び1位となり、その後もロングセラーが続いた。紙不足の時代に総部数は約15万部。
ゾルゲ事件に連座し絞首刑にされたスパイという汚名の売国奴と思われた尾崎秀実はなぜ国民に受け入れられたのか。悲惨な戦争が敗戦という形で終わり、自分たちをここまで追い込んだのは何だったのかと疑問を持った国民は、尾崎の書簡などを通して、尾崎の行動を振り返ると、実は日本を戦争から救うための決死の行動だったことがわかり、評価が大きくなったとされる。結果的に尾崎秀実像は「軍国主義日本の最大の犠牲者」へと一変した。
*ゾルゲ事件に関してはゾルゲのページに詳しく記している。ゾルゲ事件に連座した宮城与徳やゾルゲの愛人であった石井花子もゾルゲの墓に眠る。なお、ゾルゲの墓の傍らに建てられた「ゾルゲとその同志たち」碑に尾崎秀実の名も刻む。
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