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いまい せいいち

今井清一

いまい せいいち

1924.2.7(大正13)〜 2020.3.9(令和2)

昭和・平成期の歴史学者、政治史学者

埋葬場所: 10区 1種 13側 5番
〔尾崎秀實 英子 之墓〕

 群馬県前橋市出身。リヒアルト・ゾルゲ(17-1-21-16)とゾルゲ事件に連座した尾崎秀実(同墓)の娘の楊子と結婚したため、尾崎秀実は岳父にあたる。義理の叔父は文芸評論家の尾崎秀樹。尾崎秀樹主宰の「中国の会」や「ゾルゲ事件研究会」に参加している。
 第一高等学校を経て、1942(S17)東京帝国大学法学部政治学科に入学したが、学徒出陣を受け、陸軍の経理学校へ入隊。空襲には直接遭わなかったが、東京大空襲や横浜大空襲で友人を失う。身の回りに空襲の被害を受けた人が多く、「民衆はなぜ戦争に巻き込まれ、止められなかったのか」を出発点に、一貫して平和主義の立場で研究を始める。
 '45.9 終戦直後に大学は卒業。戦後ベストセラーとなる尾崎秀実が妻子との獄中手記『愛情はふる星のごとく』の編者として携わる。'47 大学院に進む決意をし、本格的に近現代史の研究者の道を歩むことになる。丸山眞男(18-1-31)を師事。大正デモクラシーやファシズムを中心に近現代史を専攻。
 '55.11.16 藤原彰・遠山茂樹との共著『昭和史』を岩波新書から刊行しベストセラーとなる、'56 亀井勝一郎が「文藝春秋」にて『昭和史』に対して、㈰敗戦に導いた元凶や階級闘争の闘士は出て来るが戦争や侵略を支持した国民が描かれていない点、㈪個々の人物描写が乏しく共産主義者の戦いが国民の広い層と密着しなかった点が無視されている点、㈫戦争で死んだ死者が描かれていない点、㈬ソ連の参戦への批判を避けた点を批判した。これをきっかけに、歴史学研究者らの間で論戦「昭和史論争」が起こる。昭和史論争は、第二次世界大戦後の日本における歴史認識の問題をめぐっての、また、歴史教育や歴史教科書の問題をめぐる論争の出発点としての意味を持つとされる。結果、今井ら著者たちは、これらの論争をもとに当初の版を絶版とし、'59.8.31 改訂版を刊行した。
 '52 横浜市立大学専任講師となり、'55 助教授、'60 教授となった。専門は日本近現代史、政治史。1970年代より「横浜の空襲を記録する会」を立ち上げ、参加した市民と共に本をまとめるなど、空襲の記録を紡いだ。'91(H3)横浜市立大学を停年退官し名誉教授。同年 湘南国際女子短期大学教授を務めた。
 主な著書に『日本の歴史(23)大正デモクラシー』(1966)、『日本近代史(2)』(1977)、『大空襲5月29日−第二次大戦と横浜』(1981)、『横浜の関東大震災』(2007)、『濱口雄幸伝(上・下)』(2013)、『関東大震災と中国人虐殺事件』(2020)。『日本の百年』や昭和史関連の編著や共編著も多く、また現代史史料や資料などの編纂も多く出した。
 2010 第16回横浜文学賞、2013 日本の近現代政治史と横浜を含む地域史の研究に尽力した功績が評価され、89歳の時に、第62回神奈川文化賞を受賞した。肺炎のため逝去。享年96歳。

<講談社日本人名大辞典>
<タウンニュース港北区版 「第62回 神奈川文化賞」を受賞した今井 清一さん>
<訃報記事など>


墓所

*墓柱に「尾崎秀實 英子 之墓」。裏面「一九四四年十一月七日卒 一九七二年五月三十日卒 西園寺公一謹書」と刻む。2020(R2)今井清一が亡くなった後、墓所右側に墓誌が建った。今井清一の戒名は横誉院和集一道清居士。妻は楊子(ようこ:子を付けづ「楊」のみと表記する場合もある)。

*義理の叔父の大衆文芸評論家として「ゾルゲ事件」の真相究明などで活動していた尾崎秀樹(おざき ほつき:1928.11.29-1999.9.21)は生前、没後は秀実の墓所に入りたいと懇願していたが、詳細は不明である。しかし、尾崎秀樹よりも後に亡くなった今井清一が刻む墓誌が建ったことにより、尾崎秀樹は同墓に眠っている可能性は低いと思われる。


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