大阪出身。政治評論家のジャーナリスト丸山幹治・せい(共に同墓)の次男として生まれる。兄は芸能プロデューサーで音楽評論家の丸山鉄雄(同墓)、弟に社会評論家の丸山邦男(同墓)がいる。
旧制一高に進学、大正デモクラシーを代表する長谷川如是閑と父が友人であったこともあり影響を受ける。1933(S8)長谷川を弁士とする唯物論研究会の講演に赴いたために警察に検挙され、特別高等警察の取調べを受けた。
1937(S12)東京帝国大学法学部卒業。在学中に懸賞論文で執筆した『政治学に於ける国家の概念』が認められ、南原繁(3-2-11-2)の助手となった。当時の日本は日中戦争に突入した時期である。
真男はウェーバー・マンハイムらを導きの糸に徳川期の政治思想を研究。それは、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の思想に制度を「自然」的なものではなく「作為」的なものととらえる近代的思惟の形成をみたものだった。
この後、福沢諭吉の研究も進め、個人の独立を国家の独立に先行させる福澤の思想にあるべき近代精神をみようとするものだった。その研究を通して、自由のあり方や日本の権力偏重などを分析し、 自らの思想的な核を形成した。
'40(S15)同大学助教授。'42東洋政治思想史講座を担当。'44陸軍二等兵として教育召集を受け平壌へ送られたが脚気のため除隊となり戻る。'45再召集を受け広島県宇品の陸軍船舶司令部に送られ被爆、終戦後復員。
戦後、大学に戻り、日本近世・近代の政治思想研究、現代政治思想研究、アメリカ政治学の導入などで独自な学風を示し、'46発表の『超国家主義の論理と心理』は権威と権力を合わせ持った天皇制国家の「無責任の体系」を鮮やかに析出し、当時の思想界に衝撃を与え、戦後民主主義をリードする代表的な知識人となった。'50東京大学法学部教授。
'49平和問題談話会の設立メンバーの一人として「全面講和」を説き、60年安保でも積極的に反対運動に加わった。また、西洋の近代政治学の方法を巧みに適用した日本思想史の研究は、研究史上に新生面を開いた。「丸山学派」と称される協力な研究者グループを育て、日本の思想史学や政治学を質量ともに飛躍させた。
東大紛争で全共闘学生らの批判を受けたが、暴力によって自由な言論を抑圧あることは容認できず対抗するも、心労と病気が重なり、'71東京大学を早期退職('74名誉教授)。
一時論壇から遠ざかり、日本思想の底に流れる「執拗低音」の解明に取り組み、'72「歴史意識の『古層』」などを書く。'75〜'76プリンストン高等研究所所員。'77第4回大佛次郎賞。'78学士院会員。
主な著書に、『日本政治思想史研究』(1952)、『現代の政治の思想と行動』(1956上・1957下)、『日本の思想』(1961)、『戦中と戦後の間』(1976)など多数ある。
晩年、オウム真理教等の日本の情況を「私の青年時代を思うと、日本中、オウム真理教だったのではないか。 外では通用しないことが、内では堂々とまかり通る。違った角度から違った照明を当てることができない。
今も昔も『他者感覚のなさ』が問題だ。一人一人の知的水準は高いのに、判断となるとなぜかおかしい」と危惧した。「丸山政治学」と総称されるその学問の思想は、日本だけでなく外国の研究者にも大きな影響を与えた。肝臓がんのため逝去。享年82歳。家族のみで密葬を行い、約1週間後に公表された。'96.8.26(H8)千日谷会堂(東京新宿)で偲ぶ会が行われた。