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まるやま かんじ

丸山幹治

まるやま かんじ

1880.5.2(明治13)〜 1955.8.16(昭和30)

明治・大正・昭和期のジャーナリスト、政治評論家

埋葬場所: 18区 1種 31側

 長野県埴科郡松代町(長野市)出身。号は侃堂(かんどう)。1901(M34)東京専門学校邦語科行政科(早稲田大学)卒業。
 日本新聞、京城日報をへて、大阪朝日新聞に入ったが、1918(T7)米騒動の際の白虹(はっこう)筆禍事件のため、大山郁夫・長谷川如是閑らとともに退社した。
 '28(S3)大阪毎日新聞社に入り、コラム『硯滴(けんてき)』、'36東京日日新聞に移って、短評論『余録』を'53まで、計25年間執筆し続けた。享年75歳。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典など>


*墓石は和型「丸山家之墓」。左側に墓誌があり、戒名は眞厚院實譽澄心侃堂居士。

*妻のせい(-1945.8.15没 同墓)は政治評論団体の政教社社主の井上亀六(号:藁村)の異父妹にあたる。戒名は澄心院鏡譽眞月妙清大姉。長男の丸山鉄雄(同墓)は芸能プロデューサーで音楽評論家、次男の丸山真男(同墓)は政治学者、三男の丸山邦夫(同墓)は社会評論家として活躍した。


【白虹筆禍事件】
 1918(T7)大阪朝日新聞が引き起こした事件。白虹事件、筆禍事件とも。
 当時の大阪朝日新聞は、鳥居素川編集局長の下に長谷川如是閑、大山郁夫らを擁し、いわゆる〈大正デモクラシー〉の最先頭に立つ言論活動を行っていた。特にシベリア出兵、米騒動に関連して寺内正毅内閣を激しく攻撃していた。 このため弾圧の機会を狙っていた寺内内閣は、1918.8.25に開かれた「関西新聞社通信社大会」の報道記事の中の、〈白虹日を貫けり〉という一句をとらえ、この一句が兵乱が起こる兆候を示す故事成句であり、皇室の尊厳を冒とくし政体を変改するものとして新聞紙法の「朝憲紊乱」に当たるとし告発して、同紙を発行禁止にもち込もうとした。これにより、編集局長らが辞任に追いこまれた。

<世界大百科事典>
<大辞林>


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