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かめい かついちろう

亀井勝一郎

かめい かついちろう

1907.2.6(明治40)〜 1966.11.14(昭和41)

昭和期の文芸評論家

埋葬場所: 20区 1種 22側 13番
改葬 → 浅草本願寺

 北海道函館出身。函館貯蓄銀行支配人をしていた父の喜一郎・ミヤの長男として生まれる。函館中学校、山形高等学校(山形大学)を経て、1926(T15)東京帝国大学文学部美術科に入学。'27(S2)中野重治らを知り、「新人会」会員となってマルクス・レーニンに傾倒。社会文芸研究会、共産主義青年同盟に加わり、'28大学を退学。同.4.20 三・一五事件直後に治安維持法の疑いで逮捕され、市ヶ谷刑務所と豊多摩刑務所に投獄された。'30.10.1 転向上申書を提出し、同.10.7 保釈された。'33.12 懲役2年(執行猶予3年)の判決を受けた。
 この間、'32プロレタリア作家同盟に属し、『ゴーリキー論』などを発表したが、翌年に解散。'34同人雑誌「現実」の同人として評論を発表し、最初の評論集『転形期の文学』を刊行。'35保田与重郎と「日本浪曼派」を創刊。'37『人間教育(ゲエテへの一つの試み)』を刊行し評価され、翌年、菊池寛(14-1-6-1)より池谷賞を受賞した。同年「日本浪曼派」廃刊後は、雑誌「文学界」を中心に評論家として活躍した。
 転向後の精神的彷徨をへて自己救済の道を日本の古典や仏教思想に求め『大和古寺風物詩』『信仰について』『親鸞』『聖徳太子』など、人間原理に根ざした宗教論、美術論、文明・歴史論、文学論の著作を多数連載出版した。'42日本文学報国会評論部会幹事。'45.8.12第二国民兵として軍事教練を受けたが、3日後に終戦を迎えた。
 敗戦後もその追求に尽力し、'48『現代人の遍歴』、'49『愛の無常について』、'50『恋愛論』、'52『知識人の肖像』、'59「文学界」に『日本人の精神史研究』などの連載を開始(〜'66)。宗教的立場からの文明批評で多くの読者を得た。社会的には日中国交回復にも尽力した。'64日本芸術院賞受賞。'65『日本人の精神史研究』等で菊池寛賞を受賞。'66芸術院会員。同年、食道ガンが胃・肝臓に転移し東京築地がんセンターで逝去。享年59歳。『日本人の精神史研究』は全6巻予定であったが5巻目の半ば(「古代知識階級の形成」に始まる日本人の精神史研究は中世まで)で未完となった。
 没後、'67多くの著名人・関係者から寄せられた追悼文集を長男の亀井書彦が編集し『追想亀井勝一郎』を刊行。'69文藝評論を対象とした文学賞として亀井勝一郎賞が設けられた(14回で休止)。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典など>


墓誌

*正面は自筆「亀井勝一郎」。裏面が墓誌となっており、戒名は超勝院釋浄慧居士。妻は斐子。墓石の設計は谷口吉郎によるものである。墓所左側に〈歳月は慈悲を生ず 亀井勝一郎〉の碑が建つ。

*妻の亀井斐子は歌人であり、'68『終ひ薔薇』を刊行。また'76『回想のひと亀井勝一郎』を出し、'43出産後に目を患い病臥の身となったことや、太宰治と近所であった縁、夫の交友関係のエピソードなど興味深いことが綴られている。


【三・一五事件】
 1928.3.15(S3)日本共産党や革命的労働者・農民・学生・市民1600余を検挙し、400余を起訴した事件。「'27年テーゼ」により公然と大衆の前に現れ、対支非干渉同盟を組織、天皇制打倒のスローガンで普選に立候補する等、田中義一(6-1-16-14)内閣の軍国主義的な侵略弾圧政策に真っ向から反対したので、田中内閣は驚愕し、この大検挙となった。続いて労働農民党・日本労働組合評議会・無産青年同盟の3団体が解散させられ、田中内閣は山東出兵を敢行した。
 なお「国体を変革しおよび私有財産を否認せんとする」結社・運動を禁止する治安維持法の成立(1925.3)は、これらの政策とほぼ同時期のことであり、これによって、国体を変革することそのものである共産主義者を政府が逮捕・投獄することが可能となった。

<日本史小辞典など>


※2018年末、亀井家のお墓は浅草本願寺(浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺)に改葬。谷口吉郎設計の墓所は移築ではなく完全撤去。ただし墓所内に建っていた「歳月は慈悲を生ず」の墓碑は、現在は亀井家の庭に移設されたそうです。


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