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いしい はなこ

石井花子

いしい はなこ

1911(明治44)〜 2000.7.1(平成12)

『人間ゾルゲ』の執筆者

埋葬場所: 17区 1種 21側 16番

 岡山県倉敷市出身。地主の娘に生まれたが、22歳で上京。銀座のドイツ料理店でウエートレスをしている時にドイツ人リヒアルト,ゾルゲ(同墓)と知り合った。 ゾルゲは第二次世界大戦下の日本を舞台に起きたゾルゲ事件の首謀者であり、日独から得た機密情報を母の故国、旧ソ連に流し、「世界史を変えた男」といわれる世紀のスパイである。 後、逮捕され処刑された。花子はそのゾルゲの愛人だった。 ゾルゲはドイツや旧ソ連、さらには日本国内にまで親しい女性がいたことが戦後、明らかになる中で、花子は生涯独身を貫き、死ぬまで「夫」としてこだわり続けた。 当初、二重スパイとみなして黙殺した旧ソ連は1964(S39)ようやくゾルゲの名誉を回復する「ソ連英雄」の称号を与えた。 花子は、いまもロシアで高く評価されていると海軍武官補佐官のトフゴ海軍中佐は述べている。 葬儀・告別式は日華葬斎場で行われた。「人間ゾルゲ」など著書もある。享年89歳。

<産経新聞死亡記事>


墓所 墓誌碑
同士 句


【ゾルゲ逮捕後と多磨霊園のゾルゲの墓】
 1941年10月に逮捕されたゾルゲは、処刑されるまで3年間東京拘置所の独房に入れられていた。逮捕の直前に「帝国ニッポンは対ソ戦を企図せず」(日本は対ソ戦には入らず)と緊急電をクレムリンに打電し、「これで我が任務は終われり」と思い定めたゾルゲは意を決したという。
 諜報団のリーダーとして、自分一人が犠牲になることで、仲間たちの命を守りたいと考え、自分はどんな刑でも受ける代わりに日本人は助けてくださいと訴えた。特に守り抜こうとしたのは、献身的に尽くした石井花子ら女性たちだった。取り調べには協力する代わりに、自分が関係を持った女性には一切手を出してくれるな。司法取引に近い官憲との暗黙の了解があったとされる。そのため、石井花子を含めた女性たちは取り調べは受けたものの、誰一人として起訴されなかった。
 1944年11月7日にゾルゲは絞首刑に処せられた。ゾルゲには遺族が日本にいなかったため遺体の引き取り手がいなかった。当時は太平洋戦争真っ只中でもあり、処刑の報道もされなかったため、石井花子も死を知らなかった。二重スパイであったためドイツ大使館は遺体の引き取りを拒否。ゾルゲが命を懸けて尽くしたソ連は、ゾルゲの諜報団そのものについて沈黙を通した。戦後、ソ連はゾルゲの名誉回復をしますが、この時は祖国はゾルゲを見捨てたのだ。
 引き取り手のない死刑囚の遺体は、拘置所の慣例で、近くの雑司ヶ谷霊園に埋葬されることになっており、ゾルゲは運ばれ土葬された。終戦後間もない1945年10月に花子はゾルゲの死を知る。当初はドイツかソ連に遺骨は送られたものだと思い諦めていたが、3年後、不明だったゾルゲの遺体が雑司が谷に眠ることを知る。花子は関係各所にまわり遺骨を探し出そうと奮闘。1949年11月、同情した共同墓地管理人が、共同墓地へ合葬する際に骨格が大きい外人らしいものがあり、引き取り手が現れるかもしれないと思い合葬せずに別にしていてくれていたと教えてくれた。管理人立会いのもと掘り起こされ、大柄の白骨は、ゾルゲが第一次大戦中に負傷した足の傷と一致、処刑時にかけていたロイドメガネも出土したことで、ゾルゲ本人と遺骸が確認された。
 1950年11月、花子は「人間ゾルゲ」などの原稿料で墓石を整え多磨霊園に改葬。墓所には正面に黒ミカゲの洋型墓石があり、ロシア語でリヒアルト,ゾルゲと刻み、その下に「妻 石井花子」と刻む。 正面右側にはゾルゲの略歴が刻む墓誌碑が建ち、左側には「ゾルゲとその同志たち」と題され11名の同志の名が刻まれた碑が建つ。 裏面にはゾルゲの同志で獄死した宮城与徳の父、與整の句が刻む。
 1964年9月、スターリンが死去し、フルシチョフ書記長が就任をしたこともあり、各紙が「ゾルゲ再評価」を伝え始め、ゾルゲの名誉回復がなされた。これにより、ソ連諜報機関や、翌月の東京オリンピックの取材で来日した東ドイツの特派員らもゾルゲの話を聞きに花子のもとに続々と取材に訪れた。同年11月にソ連最高会議幹部会がゾルゲを「ソ連邦英雄」の称号を贈った。これによって、諜報団の存在自体を黙殺してきたソ連が存在を認めたことでゾルゲ評価が逆転した。
 日本国内は戦後、軍国主義から解放されたこと、左翼思想も出てきたこと、尾崎の著書『愛情はふる星のごとく』がベストセラーになったこともあり、ゾルゲ諜報団は「売国奴」から一転、戦争に突き進む軍閥の前に立ちはだかった、祖国ソ連を救った「愛国者」にして、戦争に反対した「平和主義者」という受け止められ方へと変化した。墓所右側のゾルゲの略歴が刻む碑には「戦争に反対し世界平和の為に、生命を捧げた有士ここに眠る」と刻む。
 ソ連崩壊後も、ロシアの駐日大使が必ず墓参する慣例になっている。


【ゾルゲとその同志たち】碑には以下の人名が刻む
ゾルゲ,リヒアルト1944.11.7刑死(巣鴨)
河村好雄1942.12.15獄死(巣鴨)
宮城興徳1943.8.2獄死(巣鴨)
尾崎秀実1944.11.7刑死(巣鴨)
フランコ・ヴケリッチ1945.1.13獄死(網走)
北林とも1945.2.9釈放の二日後死
船越寿雄1945.2.27獄死
水野 成1945.3.22獄死(仙台)
田口右源太1970.4.4歿
九津見房子1980.7.15歿
川合貞吉1991.7.31歿


【ゾルゲの墓 露大使館承継へ】
 ゾルゲの名誉回復後、ロシア大使館員や来日した政府要人がゾルゲの命日(11月7日)や対独戦勝記念日(5月9日)に合わせて墓参に訪れている。
 2020.10.29(R2)ゾルゲ墓所地にてゾルゲ生誕125周年(誕生日は10月4日)の式典が行われた。式典には駐日アゼルバイジャン、アルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン大使の他、儀仗兵も参加。駐日ロシア大使のガルージンは「ゾルゲ氏が旧ソ連の各共和国の自由と独立を守った」と述べた。墓には花輪と生花、儀式用のウォッカの酒杯とピロシキが供えられた。この式典で在日ロシア大使館のセルゲイ・シャシコフ駐在武官が、ゾルゲの墓の権利を在日ロシア連邦大使館が相続人より譲り受けることになったと発表した。
 ゾルゲの墓は石井花子が2000(H12)に没するまで管理者として守ってきた。花子没後は花子の姪が守ってきたが、2018.11 その姪も他界した。現在の相続人は遠方に移住しているため墓を維持することが困難であることからロシア大使館に相談を持ち掛けていた。都立霊園の管理する東京都の規定では、墓所の使用権の承継は原則として親族に限られているが、今回は相続人が遺言書にロシア大使館への贈与を記載することで特別に認められた。使用権の正式な承継は遺言が効力を生じてからであるが、ロシア大使館は2021年から東京都に墓所の管理料を代納している。
 シャシコフは式典で「今年、一定の法的手続きを経て、石井花子さんの相続人が、ゾルゲ氏の墓の権利を在日ロシア大使館に譲渡するという遺言書を作成した。そのため今、この墓の全責任は我々にある」と述べた。ロシア大使館は「これまでと同様に墓参をして、ゾルゲを敬っていきたいという観点から話し合いを進めた」とコメント。また「ロシアはソ連の承継国家であり、ソ連邦時代の1964年に国家英雄の称号を得たゾルゲの墓についても、合意に基づいて大使館が使用権を承継することは問題ない」と指摘し、「これからもゾルゲにしかるべき敬意を示していきたい」としている。

<毎日新聞「ゾルゲの墓 露大使館承継へ」田中洋之(2021.1.5夕刊)など>


※多く記事や書物では「リヒャルト」としているが、墓石や墓誌には「リヒアルト」と刻むため、ここでは「リヒアルト・ゾルゲ」として統一する。


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